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2017年1月31日 (火)

脱漏 嘉祿三年(1227)七月小二十六日癸卯

晴れです。納所の棟上げ式です。

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2017年1月30日 (月)

脱漏 嘉祿三年(1227)七月小二十五日壬寅

晴れました。民部大夫入道行然二階堂行盛が、二位家政子様の追善供養に、お堂を創建して、今日開眼供養を行いました。指導僧は、聖覚僧都で、京都から呼んで夜前に到着しました。仏前での話始めの言葉は花を飾るようで、法話の締めくくりの言葉は玉をも貫くように素晴らしかったので、聞いていた皆さんは喜びにあふれ、深く仏を信じる慕う心は、言葉で表現することもできません。竹御所も仏様との縁を結ぶためお出ででした。時房さんも。泰時さんも来ていました。夜になって、将軍頼経様の方角変え式がありました。西の侍だまりの囲炉裏のある部屋にお泊りになりました。おそば仕えの連中が集まって、連歌をしたそうです。

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2017年1月29日 (日)

脱漏 嘉祿三年(1227)七月小二十三日庚子

晴れです。光る物が空を飛びました。流星だそうな。

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2017年1月28日 (土)

脱漏 嘉祿三年(1227)七月小二十二日己亥

晴れました。今日、納所の柱立で、掘立柱を打ち込み、横につなぐ桁を渡しました。進士刑部丞行継の負担です。

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2017年1月27日 (金)

脱漏 嘉祿三年(1227)七月小十九日丙申

風雨も雷も激しい。午後10時頃になって晴れてきました。西の山から赤い空気が立ち上がって空の上まで覆いました。その色は赤白です。西は黒雲に隠れて、東は明月に照らし出されています。その後、明るくなったり暗くなったりして、しばらく後に消えてしまいました。明け方になって又雨がひどくなりました。

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2017年1月26日 (木)

脱漏 嘉祿三年(1227)七月小十二日己丑

晴れです。近頃、伊勢国の無法者たちが気勢を上げている。しかし、6月30日に本間左衛門尉元忠が伊勢国大石御厨(伊勢神宮領)で、山賊の首領の丹生右馬允を見つけて襲い掛かったら、部下達を連れて逃げてしまい、一人としてやっつける事が出来なかったと、急ぎ報告してきました。この無法者は、本間元忠が、去る4月22日命令を受けて、丹生山で捕まえようとしたところ、かえって彼らのために親類や家来を多く殺されてしまったんだそうな。

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2017年1月25日 (水)

脱漏 嘉祿三年(1227)七月小十一日戊子

空は快晴です。二位家政子様の三回忌の法事と丈六阿弥陀堂の開眼供養です。お日柄については何度か検討されたけど、結局命日の今日になりました。指導僧は、荘厳房律師退耕行勇。お供の僧は20人。舞楽の奉納は略す。お布施は三種類の物25個。竹御所もお経を聞きにやってきました。時房さん・泰時さん・時氏さんを始め、仏様との縁を結ぶために集まった人は数えきれませんとさ。

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2017年1月24日 (火)

脱漏 嘉祿三年(1227)七月小十日丁亥

晴れました。夜になって、新築のお堂で地鎮祭を行いましたとさ。

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2017年1月23日 (月)

脱漏 嘉祿三年(1227)七月小四日辛巳

晴れです。午後六時頃、六波羅の修理亮時氏が鎌倉へ到着しました。これは、丈六堂の開眼供養に仏様とのご縁を結ぶために来ようとしていた所、次郎時実の事件を聞いて、特に急いできたのだそうな。

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2017年1月22日 (日)

脱漏 嘉祿三年(1227)六月大三十日人丑

晴れました。御所の寝殿の南側で、年に二回の六月の祓を行いました。晴賢が勤めました。石山侍従藤原教定は、ご褒美を渡す役を勤めました。周防前司中原親実が、指揮担当だそうな。

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2017年1月21日 (土)

脱漏 嘉祿三年(1227)六月大十九日丙寅

曇りです。政務会議があり、丈六堂開眼供養について、武蔵次郎時実の事件によって、延期することに決定しましたとさ。

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2017年1月20日 (金)

脱漏 嘉祿三年(1227)六月大十八日乙丑

雨降りです。午前六時頃、武蔵次郎時実〔泰時さんの現在の奥さんの次男で16歳〕が、家来の高橋二郎〔京都五条大橋(高橋)当たりの住人〕に殺されました。同僚三人が同様に殺されました。この日は、翌日が丈六堂の開眼供養の日だったので、鎌倉へ来ていた御家人達が走って集まってきました。その中で伊東左衛門尉祐時の家来が、その高橋を捕まえました。即日腰越浜で首を斬られました。その事件の最中は大雨だったのです。」
午前八時頃、豊後守従五位下惟宗朝臣島津忠久が亡くなりました。普段脚気を病んでいたうえに赤痢にかかったそうな。」
夜になって、尾藤左近将監景綱が出家しました。武蔵次郎時実の乳母夫だからです。

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2017年1月19日 (木)

脱漏 嘉祿三年(1227)六月大十七日甲子

晴れました。御所の西北の角に納所を立てるように決定しました。しかし、担当の周防前司中原親実が云うには、「明日から西は移転建築を忌む王相の方角です。方向変え式を行った方が良いでしょう。」だそうな。但し「西方は当たらないだろう?」との仰せがありました。そこで陰陽道に問いただしたところ、云うのには「寝所から西へ22丈8尺5寸(68.55m)、北へ16丈8尺(50.4m)、戌の方角に入って1丈5尺6寸(4.68m)です。そういう訳で西の板塀から6丈(18m)離れて建てれば、方角変え式をしなくてもしんぱいありません。」そうな。

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2017年1月18日 (水)

脱漏 嘉祿三年(1227)六月大十六日癸亥

晴れました。午後十時頃、戦の前兆の白虹を見たそうな。

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2017年1月17日 (火)

脱漏 嘉祿三年(1227)六月大十五日壬戌

晴れました。5月10日に大内裏の火事見舞いに行った、伊東左衛門尉祐時と執権代理の尾藤左近将監景経が京都から帰ってきたそうな。

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2017年1月16日 (月)

脱漏 嘉祿三年(1227)六月大十四日辛酉

晴れました。六波羅から、宿場宿場で馬を乗り継いで来た伝令が到着して報告しました。「先日の七日午前八時頃に、鷹司油小路の大炊助入道の後見の肥後坊の家で、菅十郎左衛門尉周則が二位法印尊長を捕まえようとしたら、あっという間に自殺してしまいました。死ぬ前に捕えようと攻めかかった侍二人が手傷を負いました。翌日の八日に六波羅で尊長は息絶えました。この人は、承久三年の乱の首謀者です。その後、肥後坊の家に隠れ住んでいました。又、和田新兵衛尉朝盛法師は、先日捕まえそこないましたが、今日逮捕しましたとさ。

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2017年1月15日 (日)

脱漏 嘉祿三年(1227)六月大十二日己未

雨降りです。だいたい最近、雨が十日以上も降り続いていま。あちこちで洪水が起き、河川の近くの田畑が流失したそうな。

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2017年1月14日 (土)

脱漏 嘉祿三年(1227)六月大八日乙卯

雨降りです。大倉大慈寺の梵鐘を鋳るようにと、決定がありました。後藤左衛門尉基綱・清原右衛門志季氏がこれを担当します。

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2017年1月13日 (金)

脱漏 嘉祿三年(1227)六月大一日戊申

晴れました。日食がきちんと現れました〔40%〕。

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2017年1月12日 (木)

脱漏 嘉祿三年(1227)五月小二十三日辛丑

播磨国斑鳩庄内久岡名の地頭「青木兵衛五郎重元」は、監督権を止められました。当所の元の現地管理者内藤右馬允成国は、去る承久三年の承久の乱で朝廷軍についたので解任され、幕府から青木重元を地頭に任命しましたが、最上級荘園権利者の法隆寺が苦情を言ったので、この様な人事となりました。この荘園は聖徳太子が寄進したので他の土地とは由緒が違います。頼朝様の時代に、信仰深く寺の隆盛を願ったのです。」

去る14日午前八時頃、修理亮〔時氏〕の奥さんが、六波羅で男の子を安産したと、今日連絡が来ました。又、医者の和気清成が看護したので、無事な出産だったのは名医だからです。と泰時に申し送って来ましたとさ。

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2017年1月11日 (水)

脱漏 嘉祿三年(1227)五月小十四日壬辰

晴れです。朝鮮の高麗国から公文書が来ました。今日、御所で披露されました。その手紙の書き様は、

 高麗国全羅州道の巡回査察官が文書を出す。日本国総監大宰府長官
 お宅の国に属する対馬の人々は、昔から貢物を届け、長い間仲良くやって来ました。又、私の国も取引などの便利のため、出張所を持って仲良くすることによって、海岸の州や県、島々の住民、も前々からの友好を好んで、嫌いあうことは有りませんでした。彼らが云うには、金海府は対馬の人が昔から来て泊まる所だとの事は御承知ですか。去年の六月に、その夜陰に乗じて穴倉から入って、盗みをしていきました。この頃はそれが激しいのです。又、何処の村へも徴収使がやってきて、誰彼区別なく、無実の百姓から略奪が修まりません。今では、国の朝廷がこの問題を取り上げております。云うまでもなく、当方の役人20人を指図して、調査をさせて前には去りました。対象から名簿を提出する礼儀制度も廃絶して行われておりません。船を数多く集団化して、貿易の船の行き来は行わず、悪事だけをしている。これはどういうことでしょう。このような道理の通らない事は、早く止めさせる様に文書を出してください。右の事をぜひ実行してくださいと申す。
日本の国の政務者に謹んで申します。
 丁亥2月日 申す
副使兼監倉使転輸提黙刑獄兵馬公事龍虎軍郎将兼三司判官趙判

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2017年1月10日 (火)

脱漏 嘉祿三年(1227)五月小十一日己丑

晴れです。午後二時頃地震です。

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2017年1月 9日 (月)

脱漏 嘉祿三年(1227)五月小十日戊子

晴れです。京都の大内裏の火事見舞に、派遣員が上洛しました。将軍の代理は伊東左衛門尉祐時。武州泰時さんの代理は、尾藤左近将監景経だそうな。

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2017年1月 8日 (日)

脱漏 嘉祿三年(1227)五月小八日丙戌

晴れです。将軍頼経様の病気が終わったので、穢れを洗い流す沐浴の式があり、泰時さんも立ち会いましたとさ。

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2017年1月 7日 (土)

脱漏 嘉祿三年(1227)五月小二日戊辰

伊勢神宮の式年遷宮専用税について、全国的に不作で飢饉です。疲れ切った農民達は、期限内での納税は難しいと、既に朝廷に報告し終わっています。朝廷からの回答待ちの間に、材木仕入れの租税が足りないと、徴税役人が嘆いているので、武州泰時さんの納税用の駿河・伊豆二国分の割り当て税については、貸付分を返納させて宛てるよう決めました。利息分については、特産物を集めて宛てるように、今日徴税役人に言いつけましたとさ。

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2017年1月 6日 (金)

脱漏 嘉祿三年(1227)五月小一日己卯

晴れです。六波羅からの使いが来て報告しました。「先月22日午後二時頃に、土御門室町から失火があり、南は勘解由小路まで延焼しました。東風が強かったので、炎は大内裏にまで来て、承久元年(1219)から新築してきた建物も門なども全て燃えて灰になってしまいました。」だとさ。

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2017年1月 5日 (木)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大二十九日丁丑

晴れです。将軍頼経様の病気についてお祈りを始めさせました。周防前司中原親実が担当します。
 
仏眼の護摩焚きは、荘厳房律師退耕行勇。
 尊星王の護摩炊きは、信濃僧都道禅。
 薬師如来の護摩炊きは、大進僧都観基。
 北斗星の護摩炊きは、若宮別当僧都定雅。
 金剛童子の護摩炊きは、丹波律師頼暁。
 聖観音のお経は、山口法眼。
 千手観音のお経は、宰相律師。
 不空羂索観音のお経は、常陸律師。
 延命のお経は、越中阿闍梨。
 大威徳明王のお経は、蓮月房律師。
  以上が仏教です。
 三万六千神祭は、前大膳亮安陪泰貞。
 属星は、陰陽大允安陪親職。
 天地災変祭は、陸奥権守安陪國継。
 泰山府君祭は、右京亮安陪重宗。
 呪詛祭は、陰陽少允安陪晴幸。
 霊気は、散位安陪晴賢。
 疫神祭は、散位安陪道継。
 竈神は、図書助安陪晴職。
 土公祭は、散位安陪宣賢。
  以上がお経以外。

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2017年1月 4日 (水)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大二十七日乙亥

晴れました。泰時さんの提供で、将軍頼経様の病気のお祈り、三万六千神以下のお祓い祭りを行いました。今日から多少回復してきております。

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2017年1月 3日 (火)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大二十六日甲戌

晴れました。午後十時頃地震です。

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2017年1月 2日 (月)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大二十五日癸酉

晴れました。将軍頼経様の病気によって、お祈りを始めるように命令が出ましたとさ。

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2017年1月 1日 (日)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大二十四日壬申

晴れました。将軍頼経様の御病気について、時々発症されます。今日の午後八時頃に発症しました。泰時さんはじめ皆集まってきましたとさ。

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