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2016年12月31日 (土)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大二十三日辛未

晴れです。関西方面での反幕府地侍の反乱には、守護人に命令して退治させることにしようと、お決めになりましたとさ。

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2016年12月30日 (金)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大二十二日庚午

晴れです。泰時さんが大倉御堂に出かけました。その場所で陰陽師の連中を呼びつけて、新築のお堂の開眼供養についてお尋ねになりました。「6月19日がいいですよと、京都では占い結果を云って来ているけど、それ以前に路盤工事が終えそうもないのです。7月11日〔命日〕以前のお日柄を考えて云うように。5日壬午はどうであろうか?」と云いました。
安陪晴幸と安陪文元が云うには、「午の日は、将軍頼経様の外出に良くない御衰日なので、もっとも控えるべきでしょう。」だとさ。
安陪泰貞が云うには、「将軍頼経様の御衰日に、二位家政子様の法事は控える必要はありませんよ。但し、11日戊子は、問題がない日です。この日にするのが良いでしょう。」だとさ。
安陪親職と安陪宣賢が云うのには、「戊子は、特に良い日には入りません。しかも丈六仏の開眼供養の例はありません。5日がいいですよ。」だとさ。
それぞれの云ってることが、5日で一致しているので、駿河前司三浦義村達、会議のメンバーが検討して云うのには「将軍頼経様の御衰日を控える必要はありません。〔追加して〕三宝(仏法僧)吉日は5日が良いと決めました。清和天皇の時代の貞観三年(861)辛巳三月十四日戊子に東大寺の大仏の開眼供養をしました。

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2016年12月29日 (木)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大二十一日己巳

晴れました。新御所の瓦の下の屋根裏の板を葺いて、瓦を葺きたいと思いました。しかし、五月節気に入るので控えた方が良いのか、建設監督者の隱岐入道行西二階堂行村と後藤左衛門尉基綱が云うので、陰陽師に聞くことにしました。天井裏の板は遠慮することは無い。屋根の上の裏板と瓦は共に控えるべきと、陰陽師一同が云うので、延期しましたとさ。

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2016年12月28日 (水)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大十六日甲子

晴れました。近年、世間では急死がとても多くなってきています。この供養のために、或る者は春の餅、或る者は粥を煮て食べます。あちこちでこの様な行事があります。今夜、御所でもこの行事を始めました。
又、将軍頼経様の病気のために、今日御所の南門で、鬼気祭を行い、安陪泰貞が勤めました。島津豊後守忠久の負担です。周防前司中原親実が担当しました。

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2016年12月27日 (火)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大十三日辛酉

午後八時頃地震です。今日、昨日の怪しげな出来事と病気にかからないように、七人の泰山府君祭を行いました。安陪親職・安陪晴賢・安陪泰貞・安陪重宗・安陪文元・安陪道継・安陪國継が勤めましたとさ。

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2016年12月26日 (月)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大十二日庚申

晴れです。幕府の畳の上に犬の糞がありました。驚いてすぐにお祓いの命令を出しました。百怪祭を行いました。安陪國継が勤めました。

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2016年12月25日 (日)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大八日丙辰

晴れました。鬼気祭などのお祈りを規則通りに行いました。

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2016年12月24日 (土)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大四日壬子

晴れました。将軍頼経様は、13番の相撲をご覧になりました。

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2016年12月23日 (金)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大三日辛亥

晴れました。将軍頼経様の具合は、多少熱っぽいようです。但し、今日特別な事はありませんそうな。

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2016年12月22日 (木)

脱漏 嘉祿三年(1227)四月大二日庚戌

晴れました。大慈寺の境内に、二位家政子様三回忌のために、泰時さんの願として丈六堂を建立します。今日が棟上げ式です。時房さん・泰時さんも立ち会いました。御家人が群れ集まってきました。建築技師たちは褒美を貰いました。沢山なので書ききれません。同じ日に、民部大夫入道行然二階堂行盛のお堂も棟上げ式です。これも同様に二位家政子様への追善供養のためです。」
午後六時頃、将軍頼経様の具合が悪いので、お祈りを始めました。明日は陰が重なる日だからです。

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2016年12月21日 (水)

脱漏 嘉祿三年(1227)閏三月小二十九日戊申

晴れました。二位家政子様の三回忌の法事のため、大倉郷の大慈寺の境内を指定してお堂を建立しようと、普段から検討してきましたが、決まりました。今日、陰陽師にお日和の上申書を出させました。安陪親職・安陪晴幸いか七人の陰陽師が連名しました。柱立て・棟上げ式は4月2日を選んで出しましたとさ。

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2016年12月20日 (火)

脱漏 嘉祿三年(1227)閏三月小二十日己亥

晴れました。腰越の海の色が赤くなって、まるで血のようです。

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2016年12月19日 (月)

脱漏 嘉祿三年(1227)閏三月小十七日丙申

快晴です。諸国の守護地頭の領地関係については、貞応二年(1223)の命令書通りに徴収し、市や川港の関銭、労役負担の無理な催促など、守護関係者の僭越な横領は止めるべきなどの箇条書きを、六波羅に送りましたとさ。

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2016年12月18日 (日)

脱漏 嘉祿三年(1227)三月大二十七日丙子

晴れです。大進僧都寛基が、陸奥国葛岡郡小林郷の新熊野神社領地の荘園領主として、特に神社の行事を盛んにするように云われました。これは、先日の御祈祷の褒美です。
今日、幕府で相撲見物をしました。その中に出家した坊さんの相撲取りが一人おります。城太郎義景が連れてきたものです。この対戦相手は、周防前司中原親実が連れてきた男で、名を平太です。よくよく力士を見て、この男が勝ちそうだと、将軍頼経様は思いました。そこで藤内左衛門尉定員に命令して、陰陽師の散位安陪晴賢・雅楽助安陪晴貞・散位安陪重宗・散位安陪道継を呼び寄せました。一の平太と二の坊主とどっちが勝つと思うか占いをさせました。それぞれ昼の12時を指定して占って云いました。「一の男が勝つ。」と晴賢が云いました。晴貞も「一が勝でしょう。」。重宗は「引き分けですね」とのこと。道継は「二が勝でしょう」と云いました。晩になって、相撲を十七番勝負させました。例の坊さんは平太に負けてしまいました。

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2016年12月17日 (土)

脱漏 嘉祿三年(1227)三月大二十四日癸酉

晴れました。三つの厄が重なる三合、それに地震へのお祈りを始めました。五人の北斗星の護摩焚きは、大進僧都寛基。八字文殊(頭の髷が八つある文殊菩薩)の法は、越後阿闍梨。一字金輪法は、信濃法眼道禅。七曜の供養は、助法眼珍与。北斗星の供養は、師法橋珍瑜。 

六万三千神祭〔小山下野入道朝政の負担で、代参は駿河蔵人〕 は、阿部晴幸。
地震祭   〔駿河入道中原季時の負担で、代参は星崎判官代〕は、阿部晴賢。
天地災変祭 〔駿河前司三浦義村の負担で、代参は大江兵衛尉〕は、阿部宣賢。

 

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2016年12月16日 (金)

脱漏 嘉祿三年(1227)三月大十九日戊辰

雨降りです。先日の九日の謀反について検討会がありました。「云ってることが大したことではない。その計画も信用できるほどではない。頭がおかしいので、刑にする必要がないんじゃないのか。但し、鎌倉幕府の治めている関東御分国の郡や郷からは追い出そう。」との意見がありました。又、「武士以外の民間人の野心は、特に厳しく責めるべきなので、侍の刑法を逃れるわけには行くまい。今後の粛清のために、首切りの刑にしましょう。」とも云ってます。では、判決は二位家政子様の三回忌の後に、検討しましょうだとさ。ついで、波多野中務次郎経朝が表彰され、美作国で一村を与えられましたとさ。これは、幕府への忠義を無視するわけにはいかないからです。

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2016年12月15日 (木)

脱漏 嘉祿三年(1227)三月大十五日甲子

午後六時頃地震です。

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2016年12月14日 (水)

脱漏 嘉祿三年(1227)三月大十三日壬戌

晴れです。弾正忠清原季氏が担当して、地震への祈りを、坊さんや陰陽師に命じましたとさ。

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2016年12月13日 (火)

脱漏 嘉祿三年(1227)三月大九日戊午

晴れです。隠岐院後鳥羽上皇の三番目の皇子だと自称して、悪だくみを企む連中がおります。仲間は4・5人です。由比ガ浜あたりの民家で、波多野中務次郎経朝がこれを逮捕しました。金窪左衛門尉行親・平三郎左衛門尉盛綱が、尋問した所、伊豆前司(源仲綱?)の家来で帰農している者だと自白状を書いて出しましたとさ。

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2016年12月12日 (月)

脱漏 嘉祿三年(1227)三月大八日丁巳

晴れです。陰陽道の連中が占い結果の上申書を出しました。しかし、晴幸と宣賢の考えは違ったので、時房さんの屋敷で言い争うになりましたとさ。

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2016年12月11日 (日)

脱漏 嘉祿三年(1227)三月大七日丙辰

曇りです。午後八時頃大地震です。あちこちの門扉や築地塀が倒れました。又、地割れも起こりました。過ぎた建暦三年(1213)和田左衛門尉義盛の乱の時代に、このような大地震がありました。その時には、中の下馬橋の地面が割れたと古老が話しています。最近ではそれに匹敵するようなことは無いとか。

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2016年12月10日 (土)

脱漏 嘉祿三年(1227)三月大一日庚戌

晴れです。午後八時頃、太白星金星が昴(すばる)を越えて行きました。今日、大倉御堂を移動する事について、再度検討会を行い、止めるように決めましたとさ。又、熊野神社の僧兵の蜂起について、検討を行い、熊野の神輿が京都市中へ入ろうとしたら、関西の御家人が集まって、途中で止めるように、六波羅へ伝言しましたとさ。白河院の時代の永保二年(1082)壬戌10月25日、熊野の僧兵が熊野・那智・新宮三か所のお神輿を担いで京都市内へ入りました。すぐに帰ったそうです。

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2016年12月 9日 (金)

脱漏 嘉祿三年(1227)二月小二十九日己酉

晴れです。六波羅からの伝令が来ました。先日の15日に熊野神社で戦いがありました。平井法眼とその一党です。これが原因で、僧兵どもが奮起して、神輿を担いで京都市中へ入ろうとしていると、21日に京都市中で広言していました。それならば、朝廷にとって大事になりますので、これを書き出して持ってきました。

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2016年12月 8日 (木)

脱漏 嘉祿三年(1227)二月小二十七日丁未

晴れました。武州泰時さんのお屋敷で、大倉御堂の地について、移動させるべきかどうか、助教中原師員・法橋円全・吉田右衛門志時方・弾正忠清原季氏・市右衛門尉時定に聞いてみたところ、中原師員・清原季氏・市時定は意見を揃えて「控えた方が良い」と云いました。円全・吉田時方は「控える必要はないでしょう」と云いました。

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2016年12月 7日 (水)

脱漏 嘉祿三年(1227)二月小二十五日乙巳

晴れです。伊勢神宮の式年遷宮の工事費について、三条の規定を設けました。朝廷にとっての大事な行事です。荘園も公領も遅れることなく納税するように、今日命令を出してくれましたとさ。

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2016年12月 6日 (火)

脱漏 嘉祿三年(1227)二月小二十一日辛丑

晴れです。午後二時頃、亀ケ谷辺で火事です。

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2016年12月 5日 (月)

脱漏 嘉祿三年(1227)二月小二十日庚子

曇り。夜中になって急に騒ぎが起こりました。しかし、何もないのですぐに静かになりましたとさ。

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2016年12月 4日 (日)

脱漏 嘉祿三年(1227)二月小十九日己亥

晴れです。武州泰時さんの願として、亡き右京兆義時さんの法事を行いました。
義時さんが建てた大倉御堂を移動させて、その跡に二位家政子様の三回忌の法事用に新しいお堂を建てようかと、検討しました。
何か差し障りがあるかどうか、評定衆に意見をお聞きになりました。まず、隱岐入道行西二階堂行村と玄番允太田康連が云うのには、「そのお堂は、元のも新しいのもどちらも先人の追善供養のためです。しかし、これを移動して建てるのは、二重の手間じゃないですか。ましてや元のをどかすと云っても、仏像を祀って供養しているのですよ。それをどかしてお堂を新築するのは、始まりは軽い気持ちでも、結果は重大な事をしていることになります。その発想が良く理解できません。控えた方が良いんじゃありませんか?」との事でした。駿河前司三浦義村始め2・3人も同じ意見です。助教中原師員は、今日は具合が悪くて休んでいます。ついで、陰陽権助阿部親職さんそれに阿部晴幸・阿部文元などに聞いたところ、阿部親職と阿部文元は控える必要はありませんと云ってます。又、阿部泰貞・阿部晴幸・阿部宣賢は、控えた方が良いと云っております。

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2016年12月 3日 (土)

脱漏 嘉祿三年(1227)二月小十五日乙未

晴れです。幕府の南庭に呼び寄せて、12番の相撲を取らせました。見物の人でごったがえしました。
今日、泰時さんの守り本尊の邸内堂で、釈迦入滅の涅槃会の法事を行いました。52種類のお供物を捧げました。信濃法眼道禅が涅槃経の講義をし、大蔵卿法印良信が釈迦の骨を祀る舎利の声明の舎利講式を読み、大進僧都寛基が、同じく声明の遺跡講式を読みましたとさ。    

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2016年12月 2日 (金)

脱漏 嘉祿三年(1227)二月小十四日甲午

将軍頼経様は、突然三浦平六左衛門尉義村の上屋敷へおいでです。すぐに帰りました。義村は馬と刀を引き出物にしましたとさ。

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2016年12月 1日 (木)

脱漏 嘉祿三年(1227)二月小十三日癸巳

晴れです。土御門院を土佐から阿波へ移すための阿波の建物の建築について、検討されました。寝殿は、阿波の守護の小笠原弥太郎長経が建築奉仕します。薬屋などその他の建物の建築費用は、諸御家人に割り当てたのです。御家人それぞれは、割り当てられた費用について、豊後前司を通して受取証書を貰っておくように命じられました。但し、一般農民に負担させれば、おそらく本来の納税をスムースに納められなくなり、上級荘園管理者の本所への滞納の原因となってしまうだろう。あくまでも地頭の取り分の中で済ませて、あえて百姓を困らせてはいけないと、それぞれに言い含めるようにとのお達しでしたとさ。

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