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2016年8月31日 (水)

脱漏 嘉祿元年(1225)十二月大二十九日乙卯

晴れです。若君三寅〔数え年の八才〕の元服です。午後四時頃、二棟の御所でその式典をしました。後藤左衛門尉基綱が、今日の進行役です。予定時刻にお出ましです。二条侍従教定が介添えです。泰時さん・陸奥守足利義氏ほかが、侍の指定座に座りました。次に元服用の道具が置かれました。駿河守重時が給仕役です。周防前司中原親実と右馬助伊賀仲能が運び役です。髪を切るのと冠を載せる役は泰時です。名前は頼経。前春宮権大進藤原俊道さんが選んだのです。時房さんは23日後病気中なので、今日は出仕を見合わせましたとさ。

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2016年8月30日 (火)

脱漏 嘉祿元年(1225)十二月大二十三日己酉

晴れです。時房さんが急に病気になりました。しかも重態です。そこで修験者の頼益を呼んだそうな。

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2016年8月29日 (月)

脱漏 嘉祿元年(1225)十二月大二十二日戊申

晴れです。式部大夫伊賀光宗法師〔法名光西〕は許可されて、流罪先から帰って来て、元の領地八か所を返されました。

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2016年8月28日 (日)

脱漏 嘉祿元年(1225)十二月大二十一日丁未

晴れました。新御所に飼いおいている牛車用の牛を、今朝引っ張り出しました。又、時房・泰時・助教中原師員・駿河前司三浦義村・隱岐入道行西二階堂行村が御所へ参りました。政務会議始め(吉書始め)を行いました。まず神社仏閣についてです(2春耕秋穫・3政務)次に東西の侍詰所の出欠札の連中(お札衆)につて、検討がありました。若君三寅が幼いうちは、なるべくそばに居るように、東の小侍詰所に詰めるように、京都から鎌倉へおいでになった当初に決めているのでそのままにします。但し、西の侍詰所が無人になってしまうのは、昔の例に反することになります。それなので、時房さんを始めとする古参の人々は、代理者を出仕させて門などを警備するような事を、連日連夜勤めるようにしてください。遠江国から東の十五か国の御家人は、十二か月を月毎に、その所帯の大きさに合わせて負わせます。自分が東の侍詰所への出勤の日であっても、代理人を西の侍詰所に勤務させる〔これを大番と云います〕ように、衆議決定しました。これは、頼朝様の時代に、当番と名付けて、場合によっては二か月、又は一ヶ月に決めて、昼一日や一晩中勤務していた例と同じです。次にその西の侍詰所の順番の人を決めました。それは、桜井次郎・安倍光高、今泉太郎・大宅政光、八町六郎・橘以康、市三郎・平重遠、長田太郎・藤原維定、飯田太郎・物部忠重、阿美小次郎・伴範兼以下です。

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2016年8月27日 (土)

脱漏 嘉祿元年(1225)十二月大二十日丙子

快晴になりました。今日、若君三寅の引っ越し式をしました。申の一点(15:00~15:24)午後三時頃に出発しました〔狩衣で乗馬です〕。昼頃と上申書に載せてましたが、ぐずぐずと時間が経過してこの様な有様です。又、先例では、引っ越しは皆夜となっています。今度は、泰時さんの意見で昼間にしました。特に思うことがあったようです。お出ましの義は、

まず、五位の人 左近大夫将監大江大江佐房 周防前司中原親実 三条左近大夫将監親実 大膳亮広仲 兵衛蔵人毛利広光 藤原匂当頼隆
 三善式部大夫光衡 伊賀蔵人 周防蔵人 兵衛判官代 伯耆蔵人 和泉蔵人 以上12人先を行く

次に、若君の後ろは
一 武州泰時        同次郎時真       越後守朝時
二 駿河守重時       大炊助有時       相模四郎朝直
三 駿河前司三浦義村    同次郎泰村       同三郎光村
四 同四郎家村       中条出羽前司家長    町野民部大夫康俊
五 日向介         小山下野左衛門尉朝長  結城左衛門尉朝光
六 後藤左衛門尉基綱    佐々木四郎左衛門尉信綱 隠岐三郎左衛門尉二階堂行義
七 加藤左衛門尉行景    天野左衛門尉政景    伊賀四郎左衛門尉朝行
八 同六郎左衛門尉光重   宇佐美兵衛尉      中条次郎左衛門尉家平
九 佐々木太郎左衛門尉重綱 土屋左衛門尉宗光    狩野藤次兵衛尉為光
十 中左衛門尉       遠藤左近将監為俊    島津大夫判官忠久

などがお供をしました。前後とも皆歩きです。南門(宇都宮辻子)からお入りになりました。南庭中央で、馬から降ろされました。牛車を寄せる間の戸と二棟の廊下を通って、寝殿の入り口の一段低い部屋に入りました。泰時さんが御簾を上げて押さえてて、お入れになりました。陰陽権助安陪國道さん〔束帯〕が魔を祓うまじないの歩きをしました。〔若君三寅は右馬から降りた後、庭の真ん中で待っていました〕廊下で褒美〔着物〕を貰いました。周防前司中原親実が手渡しました。安陪國道は御所に向って一礼して出て行きました。水や火の守り神を御所に祀りました。これを捧げる童女は略しました。又、牛車の牛〔厩務員は青い狩衣を着てついています〕を引き出しました。内藤左衛門尉盛時が指揮担当しました。その後、お供の人達始め皆庭に並んで座りました。正月の三が日の式典と同じです。

献上品を差し出す人 刀は駿河守重時 弓矢は駿河前司三浦義村 馬上袴と沓は大炊助有時
一番目の馬は、三浦駿河次郎泰村  と 同三郎光村
二番目の馬は、佐々木太郎左衛門尉重綱  と 同三郎泰綱
三番目の馬は、隠岐三郎左衛門尉二階堂行義    と 同四郎二階堂行久
四番目の馬は、狩野藤次兵衛尉為光  と 加藤五郎兵衛尉光資
五番目の馬は、陸奥四郎政村    と 同五郎実義

寝殿にお入りの後、人々は侍だまりで御馳走のふるまいを行いましたとさ。今度の引っ越し式は、実際には略式です。作法は三が日の式典ほどではありませんでしたとさ。

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2016年8月26日 (金)

脱漏 嘉祿元年(1225)十二月大十八日甲辰

地鎮祭は安陪親職。石鎮は、礎石の落ち着き(置き石の魂鎮め)を祈るのは安陪晴茂。西獄真人と七十二星の両方は安陪國道です。厩のお祓いは安陪晴職などが勤めました。周防前司中原親実が指揮担当しましたとさ。

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2016年8月25日 (木)

脱漏 嘉祿元年(1225)十二月大十七日癸卯

晴れました。夜になって新築の御所でお祓いのお祭りを行いました。それは、太歳八神祭は安陪晴賢。謝士公祭は安陪有道。井霊祭は安陪信賢。大将軍祭は安陪晴幸。王相祭は安陪文元。防解火災祭は安陪泰貞だそうな。

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2016年8月24日 (水)

脱漏 嘉祿元年(1225)十二月大九日乙未

晴れました。泰時さんが現在の若君三寅の居所へ参りました。引っ越し前に、お祓いのお祭りをするべきかどうか、検討しました。大監物源光行入道・源内左衛門尉景房それに安陪國道さん・安陪親職が呼ばれてきました。これは、光行入道と景房が、そのお祭りについて、必ずしもそうではないでしょう。行う必要はないでしょうと、内々に云ってきたので、対決させるためです。すぐに泰時が直接詳しく国道さんにお聞きになりました。国道さんが云うには、「お二人は物知りなお方ですが、陰陽道は別もんです。詳しい事はお知りではないでしょう。皇居から臣下の家へ来ていて、引っ越すときはお祓いの祭を行う事が、例として定めております。一つは、花山院の昔から、火事にあったのでなければ、そのお祭りは行われています。最近では、後京極九条良経様が引っ越しの時も行われています。」だとさ。親職が云うには、「故左府頼長の引っ越しには行っております。故将軍実朝様の時は、厩のお祓い以外は、全て行われています。ですから行うべきでしょう。」だとさ。

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2016年8月23日 (火)

脱漏 嘉祿元年(1225)十二月大八日甲午

晴れました。若君三寅の元服の日を上申した文書が京都から今朝届きました。来る29日乙卯の昼頃だそうな。賀茂有継が選んで上申しました。しかしその日は、引っ越しと元服が重なって、にわかに忙しくなりますので、前に決めたように二十日に引っ越しするのはどうなのかと、関東の陰陽師にお聞きになりました。それぞれ云うのには、「29日は出かけるのが縁起の悪い四不出日です。先例はあるけれども20日よりかは落ちるかも。」との事です。それで決まりました。すぐに引っ越し日の上申書を出させましたとさ。

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2016年8月22日 (月)

脱漏 嘉祿元年(1225)十二月大五日辛卯

新御所の棟上げ式です。時房さん・泰時さんも臨席です。隱岐入道行西二階堂行村・駿河前司三浦義村・外記大夫矢野倫重などがやって来ました。式典が終わり、匠たちに褒美を与えました。又、政務事務所と倉庫を壊し運びました。女官の大納言局の宿舎の土地でも同様に棟上げ式が行われましたとさ。

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2016年8月21日 (日)

脱漏 嘉祿元年(1225)十二月大二日戊子

晴れです。午後四時頃に鳶が御所の中へ飛び込んできたので、周防前司中原親実が担当して占いを行いました。無くした物・病気について・凶事・盗賊についてなどについて、安陪國道さん以下の陰陽師が占いましたとさ。

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2016年8月20日 (土)

脱漏 嘉祿元年(1225)十一月小二十二日己卯

雲って凍りつくほど寒くてあられが降りました。鶴岡八幡宮の生き物を放して贖罪する放生会を行いました。八月に延期した分です。泰時さんはお参りに行きました。

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2016年8月19日 (金)

脱漏 嘉祿元年(1225)十一月小二十日丁丑

晴れました。泰時さんの屋敷で、御所建設について、連日土堀をして天一神や金星神に遠慮するべきかどうか、検討をしました。「連日という事について、先例に控えるべきだとはありません。」と弾正忠清原季氏が云いました。「避けるべきだ。」と民部大夫町野康俊が云いました。そう言う説もあるもんだ。そうな。決定できないので、再び陰陽師を呼び集め、後藤左衛門尉基綱が指揮担当として、連日土を掘り返しても、天一神や金星への方角変えをしないで来ました。しかし、今日から西は天一神の遊びに出る方角なのだが、どうなんだろうか調べて報告するように命じました。「来る23日に礎石を置いて、井戸を掘って、門を立てるのは敬遠した方がよいですよ。」と国道さんはじめ6人が云いました。大膳亮泰貞は、「連日土を掘り返す作業が今まで休みなしです。寝殿以外は、今これ以上掘り返すべきではありません。ですから、遠慮すべきなのです。」と云いました。この意見を聞いて、「方角をきちんと調べなさい。」と申されました。そこで、後藤基綱は、陰陽師連中と待ち合わせて、正しい測量をしたところ、現在地の御所(伊賀朝行邸)の寝所から、新御所の地の南西の隅までは、東西では772.2m。南北では184.8mです。正しい方角は西にも南西にも当たりません。詳しく計らなくても、庚(西南西微西)の方角でしょう。悪い方角のどちらにも当たらないと、帰って来てそれぞれが云いました。それでもめる必要がないので、落ち着きました。灯り時になって会議は終わって人々は帰りましたとさ。

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2016年8月18日 (木)

脱漏 嘉祿元年(1225)十一月小十七日甲戌

今日の夕方から、新御所の屋敷神祭りを行いました。外記大夫矢野倫重が担当しましたとさ。

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2016年8月17日 (水)

脱漏 嘉祿元年(1225)十一月小十五日壬申

新御所建設中は、天一神の日や、金星・土の神が遊びに出かける方角は控えるべきでしょう。」と安陪國道さんが云ってる事について検討しました。陰陽師全員の意見が一致しているかどうか、他の陰陽師達にも聞きました。安陪親職は、「近年は控える必要がありません。」と云いました。安陪晴賢は、「特に控える必要があります。」安陪晴重も安陪宗重も安陪有道も同意見だそうな。安陪泰貞と安陪晴職は、「連日の土木作業ですから遠慮はいりませんよ。」と云いました。

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2016年8月16日 (火)

脱漏 嘉祿元年(1225)十一月小八日乙丑

晴れました。同様に新御所の縄張りをしました。時房さんと泰時さんは、監視しましたとさ。

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2016年8月15日 (月)

脱漏 嘉祿元年(1225)十一月小七日甲子

れです。新御所の材木削り始め式です。

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2016年8月14日 (日)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大三十日丁巳

晴れました。午後八時頃、新築する御所の土地で、土地神様と土を掘り起こす契約をする地鎮祭の大土工祭をしました。伊賀四郎左衛門尉朝行が指揮担当です。

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2016年8月13日 (土)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大二十九日丙辰。〔大雪十一月節句〕

晴れです。農民の税金の負担を軽くするために、武家の贅沢を止めさせました。それで、衣装や弓矢などの新作を制限する朝廷の命令が出たので、今日鎌倉で施行しましたとさ。又、御所を壊し始めました。よそに再築するからです。家屋建設を請け負う人々の責任負担です。後藤左衛門尉基綱が指揮担当です。

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2016年8月12日 (金)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大二十八日乙卯

新御所建設は、今年中に完成するように、そう決定しました。外記大夫矢野倫重が担当しましたとさ。
    今日の夕方、若君三寅は伊賀四郎左衛門尉朝行の勝長寿院前の屋敷へおいでになりました。馬に乗り、水干姿です。駿河守重時・大炊助有時・駿河前司三浦義村・三浦次郎泰村・後藤左衛門尉基綱などがお供をしました。これは、御所を壊している間の仮住まいです。

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2016年8月11日 (木)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大二十七日甲寅

晴れです。陰陽師の国道さんが、泰時さんの屋敷へ来て云うのには、「今朝の夜明けに、金星がてんびん座のともぼしに入りました。これは、静かにしているべきなのが明らかです。それで最近、天の運航の異変が続いて出現して来たのです。ですから、新御所の建設は、延期した方が良いですよ。」だとさ。そこで占いをやらせました。それは、何年に決めたらよいのかと云う事です。「今年が良いですよ。」と皆が占いました。重宗は、「今年も来年もとんでもない。」と云ってます。晴賢は、「内裏の建築などの仕事は、天変を気にする必要はありません。来年若君三寅は、九つになりますので、建設は良くない年になります。早く今年の内に、立派な建築を始めるべきですよ。」との事です。それもこれも、尾藤左近将監景綱(得宗被官頭領)が、取り次ぎましたとさ。

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2016年8月10日 (水)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大二十二日己酉

晴れです。二位家政子様の百か日の法事です。泰時さんが主催して行いました。指導僧は、信濃僧都道禅で、お供の坊さんは20人だそうな。

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2016年8月 9日 (火)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大二十日丁未

晴れです。相州時房さんは、武州泰時さんと集まって、新御所の土地について、なお検討し、占いで決めることにしたそうな。それで、安陪國道さんを始めとする7人の陰陽師を呼び集め、頼朝法華堂の下の土地を一番目として、若宮大路を二番目としました。この両方の土地の内、どっちに決めたらよいのか、占って報告するように命じられたところ、安陪國道さんが言うには、「御所をよそへ引っ越すように、陰陽道は進言しました。しかしながら、一と二とで占えば、もし一が良いと占いが出れば引っ越す必要がないので、云ってることが二つになってしまいます。ですから一と二のどっちかに占うことはできません。」だそうな。珍与法眼が云うには、「法華堂の前の土地は、良いとは言えません。西側に山があります。それに頼朝様が墓におられます。親の墓が高い処にあり、その子供等が下に住んでると、子孫は絶えると占いの本にあります。頼朝様の子孫は絶えていますので、ぴったり符合しています。若宮大路は、四神相応の勝った土地と云えます。西には、武蔵大路の大道が、東には滑川があり、北には大臣山、南には海があります。海は池や沼に似ております。」だとさ。この意見を採用してこの地にしようとお決めになられました。但し、東西どちらに寄せるかは、占いをさせましたら、西側が最も良いと、陰陽師達が云いました。安陪信賢一人だけが反対しました。東西双方ともに不吉なんだそうな。

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2016年8月 8日 (月)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大十九日丙午

晴れました。泰時さんのお屋敷で、時房さん以下が集まり、新御所の土地を決めました。小路〔宇都宮辻子〕の東西のどちらにするか、皆の意見がバラバラです。そこで、土地を占う地相見の金浄法師が云うには、「頼朝様の法華堂の下の土地が、四神相応で最上の地相です。なんで引っ越す必要がありましょうか。不便ならばあの御所の西側の土地を広げて、新築すればよいではありませんか。」と云ったので、泰時さんと時房さんが、直接意見を交わしました。このおかげで、多少疑問が出たので、決められませんでした。占いをさせる事にしましたとさ。

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2016年8月 7日 (日)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大十五日壬寅

雨降りです。晩になって雷。

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2016年8月 6日 (土)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大十三日庚子

         

             雨降りで雷です。今日、御所建設の縁起日の上申書を提出させました。矢野外記大夫倫重が担当として御前に開いて見せました。その書かれた内容は、

         

 材木を削り始める木作始めの日時は、今月23日庚戌、時間は午前八時から午後四時、又は、11月7日甲子、時間は午前十時から午後二時。
 礎石をすえる日時は、23日庚辰、時間は午前十時から午後四時。
 柱立と棟上げ式の日時は、12月5日辛卯、時間は午前六時から正午。柱立の順は、最初に西、次が東、その次が南、最後に北。
 
 嘉禄元年10月13日  陰陽権助安部國道

   

 選びました門を立てる準備の日時
 材木を削り始める日時は、今月23日庚戌、時間は午前8時から正午、又は、11月7日甲子、時間は午前10時から午後2時。
 柱立の日時は、17日甲戌、時間は午前10時から午後2時、又は、23日庚辰、時間は午前8時から10時、又は25日壬申、時間は午前10時から午後2時
  嘉禄元年10月13日

   

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2016年8月 5日 (金)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大十一日戊戌

夜中の12時頃に大地震です。

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2016年8月 4日 (木)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大四日辛卯

晴れました。時房さん・泰時さんは、人々を連れて、宇都宮辻子と若宮大路とを調べて歩き、初めて距離を測りました。隠岐入道行西二階堂行村が指揮担当をしました。着工式を始めとする日時の縁起について、安陪國道さんにお聞きになりました。今月の13日・12月5日の間がよろしいかと思いますが、22日は二位家政子様の百か日ですので、その法事の後にした方が良いので、12月5日にしましょうと、お決めになりました。古い方の御所は取り壊す事にしましたとさ。今日は、10月の卯の日は天火日なので縁起の悪い日です。

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2016年8月 3日 (水)

脱漏 嘉祿元年(1225)十月大三日庚寅

雨降る。時房さん・泰時さんが御所へ来ました。この御所を宇都宮辻子へ移そうと検討されました。又、若宮大路に沿った東側にたてようかと、検討されましたとさ。

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2016年8月 2日 (火)

脱漏 嘉祿元年(1225)九月大二十日戊寅

泰時さんは、幕府の裁判員の奉行達に面会して、命じる事がありました。「それぞれが善悪や賢いそうでないをきちんと見極めて、公平に賞罰を与えるように。」との事だそうな。

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2016年8月 1日 (月)

脱漏 嘉祿元年(1225)九月大十二日庚午

故大夫判官伊賀光季の以前の領地について、その決定がされました。彼の息子の四郎季村がこれを与えられました。それは常陸国塩釜庄〔元は和田平太胤長が支配していました〕他だそうな。

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