« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2016年7月31日 (日)

脱漏 嘉祿元年(1225)九月大八日丙寅

田越川の河原で、八万四千の石塔を立てるため、弁僧正定豪が弟子たちを連れて行きました。泰時さん・駿河守重時・駿河前司三浦義村などがこれに合流して、実施しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月30日 (土)

脱漏 嘉祿元年(1225)九月大三日辛酉

武州泰時さんは、一日中御所の中に居て、駿河前司三浦義村・隠岐入道行西二階堂行村などと、特に密談をしていました。おそらくこれからの政治問題についてでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月29日 (金)

脱漏 嘉祿元年(1225)八月大二十八日丙辰

午前二時頃、雷が鳴りました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月28日 (木)

脱漏 嘉祿元年(1225)八月大二十七日乙卯

晴れました。今日、二位家政子様の49日(三日前)の法事を竹の御所よし子が実施しました。指導僧は、弁僧正定豪。曼荼羅供を庭で坊さんがぐるぐる歩きながらお経を上げる行道を何時もの様にしました。お布施を差し出す人は15人。二条侍従教定〔参議雅経の息子〕はおまけのお布施〔砂金百両〕を勤めました。午後二時頃、一条太政大臣家の奥さん(一条能保の孫)名義の臨時の法事を実施しました。指導僧は荘厳房律師退耕行勇。お供の坊さんは十人。お布施を出す人は前と同じです。主馬判官三善宗平が実施者代理として鎌倉へ来ました。指導僧へのお布施は、錦のかぶりもの一枚。同様に右肩にかける袈裟〔銀で模様を描く。縁は金銀の鋲で止めています〕。錦六反は銀の籠に入れてます。色とりどりの呉の綾織十反。錦の袋入りひとつ。おまけは金百両、その他にも色々です。お供の坊さんは十人、それぞれに錦の右肩にかける袈裟。水晶の数珠〔銀の枝に掛ける〕。それは、全ての物が綺麗に揃えられて、奉納されています。皆壮観な眺めだと感心してます。ただし、儀式が続いて、お供の坊さんの分のお布施は灯りを灯す時間になってしまい、作法もあったもんではありません。」

今日、伊賀四郎左衛門尉朝行と同六郎右衛門尉光重は、許されて流罪先から帰ってきました(伊賀氏の乱)。二位家政子様の法事によって恩赦がなされたからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月27日 (水)

脱漏 嘉祿元年(1225)八月大十五日癸卯

晴れました。鶴岡八幡宮の生き物を放って贖罪する儀式の放生会を延期しました。二位家政子様の死の穢れによってです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月26日 (火)

脱漏 嘉祿元年(1225)八月大二日庚寅

御所の侍詰所の侍所の中を千鳥が飛び抜けていきました。びっくりして占いをさせました。病気や火事について、飛んだ時刻の午後四時頃から六時頃を安陪國道が占って報告したんだそうな。昔の御所は、千鳥が年中集まっていたんだそうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月25日 (月)

脱漏 嘉祿元年(1225)八月大一日己丑

雨降りです。午後四時頃から六時頃に日食があるはずだと、天文方宿曜師と陰陽師暦担当とが普段から論争しています。しかしながら雨降りなので、出るか出ないか決着がつきませんでしたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月24日 (日)

脱漏 嘉祿元年(1225)七月小二十三日壬午

晴れです。時房さんは、故義時さんの旧宅へ引っ越しました〔普段二位家政子様さんが住んでいました〕。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月23日 (土)

脱漏 嘉祿元年(1225)七月小十二日辛未

晴れました。午前四時頃に二位家政子様の死亡を発表しました。殉じて出家した男女は大勢います。民部大夫二階堂行盛が最初に出家をしました。
午後八時頃、勝長寿院の奥の御所の場所で火葬にしました。葬儀については、前陰陽権助安陪親職さんが実施します。但し本人は参加せず弟子の惟宗大夫有季を代理に差し出しましたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月22日 (金)

脱漏 嘉祿元年(1225)七月小十一日庚午

晴れです。午前二時頃に二位家政子様は亡くなりました。お年は69才です。
この人は、前大將軍の奥さんで二代目三代目将軍のお母さんです。漢の高祖の呂皇后と同じように政治を行いました。もしかしたら神功皇后の生まれ変わりのように、我が国の天皇家を護りましたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月21日 (木)

脱漏 嘉祿元年(1225)七月小八日丁卯

晴れです。午前八時頃に、二位家政子様は東の御所へ移られました。これは、病気が危篤状態になってきたからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月20日 (水)

脱漏 嘉祿元年(1225)七月小六日乙丑

晴れです。前権侍医和気定基〔定経の息子〕が昨夜から二位家政子様の治療の為にやって来ました。これは、普段丹波頼経さんが治療をしているのですが、具合が良くなる様子がないので手におえませんと辞退したからなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月19日 (火)

脱漏 嘉禄元年(1225)六月大二十一日庚戌

晴れました。二位家政子様の新築への引っ越しについて、予め今日に決めていました。しかし、「戌の日は遠慮した方が良い。」と医者の行蓮が云うので、隠岐入道行西二階堂行村が担当して、安陪國道さんを始めとする陰陽師6人を呼びました。そしてその旨を聞いたところ、「戌の日は遠慮すべきなんて話はありません。」と云いながら、「行蓮を呼んで対決させよう。」と行西二階堂行村に命じました。そして、国道さんが問い詰めたのは「戌の日のお渡りを遠慮すべきだとは、どの文章にあるんですか。」行蓮は答えて「文書にはありません。世間の人が云っているのです。」国道は「世間の説には由緒があるものです。どんな由緒ですか。」行蓮は答えられずに席を立ちました。隠岐入道行西二階堂行村がこの内容を報告した所、聞いてる人は笑いました。
そして、夜になって又も意識が無くなりましたので、引っ越しの途中の道で死んでしまうこともあるのかなーと、時房・泰時が考えて云ったので、陰陽師の六人はなおも占いましたとさ。」
二十六日乙卯の引っ越しが縁起が良いと、陰陽師が声を揃えて進言しました。泰時は「乙卯は四つの出かけるには縁起の悪い日の四不出日じゃないの。」と云いました。陰陽師の連中が答えて「四つの不出日は出て行くのを嫌うもので、今度のは引っ越しですから、遠慮する必要はありませんね。」と云うので、決定しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月18日 (月)

脱漏 嘉禄元年(1225)六月大十六日乙巳

曇りです。午前八時頃に、二位家政子様の意識が無くなりました。皆集まってきました。しかしながら、すぐに息を吹き返しました。日毎に具合が悪くなってきているので、昨日〔15日〕新築の建物へ移りたいと云われるけど、甲辰の相剋なので止めた方が良い。来る21日が良いと陰陽師が云うので、延期しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月17日 (日)

脱漏 嘉禄元年(1225)六月大十三日壬寅

晴れです。今日は、亡き義時さんの一周忌に当たり、泰時さんが新しく建てた釈迦堂で法事を行いました。指導僧は、弁僧正定豪。お供の坊さんは20人です。時房さんをはじめ人々が集まりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月16日 (土)

脱漏 嘉禄元年(1225)六月大十二日辛丑

二位家政子様の御病気が先日の七日から悪くなってきています。お祈りのために泰時さんの負担で、三万六千神のお祭をしました。代参は藤原匂当頼高です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月15日 (金)

脱漏 嘉禄元年(1225)六月大十日己亥

晴れました。正四位下前陸奥守大江広元さん〔出家して覚阿〕が亡くなりました。享年78才。このところ下痢を患っていましたそうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月14日 (木)

脱漏 嘉禄元年(1225)六月大八日丁酉

晴れました。二位家政子様は病気によって、今日夜中の十二時頃に生きているうちに死後を祈る儀式の逆修を始めたそうな。指導僧は信濃僧都道禅だそうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月13日 (水)

脱漏 嘉禄元年(1225)六月大五日甲午

お祈りを重ねて行いましたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月12日 (火)

脱漏 嘉禄元年(1225)六月大三日壬辰

二位家政子様が多少回復しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月11日 (月)

脱漏 嘉禄元年(1225)六月大二日辛卯

晴れました。二位家政子様が具合が悪いので、武州泰時さんの実施として、今日お祈りを始めました。天地災変呪詛の祭は安陪國道さん。属星祭・鬼気祭は安陪親職。三万六千神と螢惑星(火星)大土公は安陪泰貞。太白星(金星)は安陪重宗。泰山府君祭は安陪宣賢。天曹地府は安陪重宗が勤めました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月10日 (日)

脱漏 嘉禄元年(1225)五月小二十九日己丑

二位家政子様の具合が悪いそうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月 9日 (土)

脱漏 嘉禄元年(1225)五月小二十四日甲申

前夜雨が降りました。日照りが続いて困った農民が嘆き悲しんでいたけど、法事の後すぐにこの有難い雨が降りました。きっと、神様達から御利益が下った事を知って、国土が満たされることを謳歌すべきでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月 8日 (金)

脱漏 嘉禄元年(1225)五月小二十二日壬午

空は晴れて風邪は静かです。鶴岡八幡宮で、1200人でお経を上げる法事がありました。午前四時に始まりました。それぞれ左右の回廊と仮設小屋に座りました。まず、仁王経一巻を摺り読みです。ついで般若心経・尊勝陀羅尼経などを十回唱えました。又、般若心経・尊勝陀羅尼経を千巻も版木で摺ったのを奉納しました。ついで、そのお経百巻を金泥(金粉交じりの漆)で書き写しました。これは、諸国の一の宮に一巻づつ奉納するためだそうな。次にお経をあげました。指導僧は弁僧正定豪です。
指導僧へのお布施は、十個に分けた15種類の物です〔被り物・砂金・包み物(風呂敷包)・紬・染物・染付・帷子・白布(晒し絹)・藍摺り・真綿・色皮・銭・貨幣代わりの布〕。おまけのお布施は、紫の略服(狩衣・水干等)一揃え。
千人の坊さんのお布施は、人毎に、包み物一・紬一疋・袋米一〔三斗入り〕。200人の坊さんには、被り物一・紬一疋・袋米〔同上〕。
この他に、御家人達が引き出物を出しました。布・銭・扇・お経を入れる袋など沢山あって、数えきれませんでしたとさ。
世間に伝染病が流行り、日照りが十日以上も続いたので、そのお祈りのために、喜捨を御家人にも勧めたので、この良い行いをすることになったのです。大膳亮広仲と左近大夫将監大江佐房が、担当をしましたとさ。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月 7日 (木)

脱漏 嘉禄元年(1225)五月小二十日庚辰

千人の坊さんでお経を上げる法事について、決定がありました。坊さん達の座席を鶴岡八幡宮の庭に仮設小屋を作るそうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月 6日 (水)

脱漏 嘉禄元年(1225)五月小十七日丁丑

午前十時頃に地震です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月 5日 (火)

脱漏 嘉禄元年(1225)五月小十二日壬申

泰時さん、それに駿河守重時・陸奥四郎政村・同五郎実義・大炊助有時達は、喪明けのお祓いについては、故義時さんの葬礼は主計大夫知輔が担当したので、勤めるべきであるが、病気なので息子が代理として実施したそうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月 4日 (月)

脱漏 嘉禄元年(1225)五月小十一日辛未

式部大夫朝時が喪明けをしました。安陪晴幸がお祓いを勤めましたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月 3日 (日)

脱漏 嘉禄元年(1225)五月小六日丙寅

泰時さんは、父義時の喪明けについて、人々にお聞きになりました。しかし、このお祓いは、葬礼を担当した者なのか、或いは陰陽師が勤めるべきか、それとも他の人に頼むべきかの話です。陰陽師権助安陪国道、それに大監物源光行入道などが云うのには、「葬礼を担当した人が勤めるべきでしょう。」次に源内左衛門尉景房がいうのには、「陰陽師が請け負って勤めるべきでしょうよ。」との事です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月 2日 (土)

脱漏 嘉禄元年(1225)五月小三日癸亥

二位家政子様の建物に、板塀の中門と折戸を建てるように、お決めになられました。しかし、夏場に建設をしてよいものか、泰時さんは手紙で陰陽師にお聞きになりました。「六月に入ってから建築した方が良い。板塀は五月でも縁起が悪い事はありません。」と、報告しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月 1日 (金)

脱漏 嘉禄元年(1225)五月小二日壬戌

昼頃に京都朝廷からの使いが到着しました。先月の20日に改元して、元仁二年を嘉禄元年にしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »