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2009年7月31日 (金)

第九巻文治五年(1189)四月小二十一日辛巳

出雲国代官の兵衛尉政綱のことについて、後白河法皇からの手紙にご返事を出されました。自ら筆を取られ書かれたんだそうです。

 四月八日のお手紙を、同月十九日に恐れながら拝見させていただきました。政綱のことについて申し上げます。どうして、他の人から法皇に申し上げられていない事を、わざわざお上に申し上げたのは、罪のない人を訴えている訳ではありません。しかし、按察使大納言藤原朝方卿は、知行国を取上げられた事は、とても気の毒な事だとは思いますけど。杵築神社(出雲大社)のご遷宮をできない事も、残念な事だと思います。言っていた事が、現実となって現れれば、朝方卿は、なんと恥ずかしい事だと思うことでしょう。一事が万事そうなのです。出雲の国を、元のように支配したいなら、兵衛尉政綱ではない代官を使うように決めて命じてくださるように考えてください。一つは、天皇家へのご奉仕をきちんとこなしましょう。究めて恐れ多いことです。今はどうして法皇様に恥をかかせましょうか。よくよく言い聞かせて、重罪にはさせません。為則がこちらへ下ってくるとの事も、承知いたしました。これで日來の怒りもおさまる事が出来ました。

  四月二十一日                 頼朝

 今、このように申し上げるのは、まるで考えが足りないように思われる恐れはありますが、言わないので置くのも又、申し訳ないと思います。このように申し上げていただくようにお願いします。後白河法皇に申し上げずに居れば、身分の高い人も、低い人も、個人を恨む事はないでしょう。どのような場合も、院が事を間違えになる事は無いでしょう。贔屓することなく、何でも申し上げておきたいのです。全く遺恨はありません。これからも頻繁にしつこく申し上げますので、恐縮しております。

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2009年7月30日 (木)

第九巻文治五年(1189)四月小十九日己卯

梶原平三景時の京都駐在の家来が、伝令として到着しました。師中納言吉田經房の八日付けの手紙を持ってきました。その内容は(22日条の返事で)、刑部卿藤原頼経と宗長の親子、按察使大納言藤原朝方父子の事は、申されておられるように処分いたしました。又、出雲目代兵衛尉政綱は、義経と通じているとの証拠の手紙を院にご覧いただきます。次ぎに比叡山の僧兵達の武器の保有を禁止するように、筆頭者座主に命令をしました。奥州征伐の朝廷の命令書については、摂政九条兼実以下の公卿たちに検討を言いつけておられるので、追って出されるものと、法皇から承っております。又、一品房昌寛が書き足して言うのには、先月十九日に按察使大納言藤原朝方と出雲侍従葉室朝経が蟄居しました。同じ十三日に朝方親子と出雲目代兵衛尉政綱は、職を解かれましたとさ。

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2009年7月29日 (水)

第九巻文治五年(1189)四月小十八日庚寅

北條時政殿の三男〔十五歳〕に、幕府の御所で元服式を行いました。日暮れになって、西の侍所でこの儀式をしました。大内武藏守義信、駿河守伏見廣綱、遠江守安田義定、源參河守範頼、江間義時殿、新田藏人義兼、千葉介常胤、三浦介義澄、同じ三浦十郎義連、畠山次郎重忠、小山田三郎重成、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、工藤庄司景光、梶原平三景時、和田太郎義盛、土肥次郎實平、岡崎四郎義實、宇佐美三郎助茂が座に着きました。〔東側の上座です〕頼朝様がご出座なさいました。まずはお酒を三杯。義時様が(頼朝様に)お酌をしました。次ぎに千葉小太郎成胤が役を替わりました。次ぎに子供が呼ばれて前へ出てきて、頼朝様の前へかしこまってしゃがみました。次ぎに頼朝様が三浦十郎義連が冠親になるように仰せられました。義連は、身体をかがめて、しきりに辞退をしました。頼朝様は重ねて言われるのには、「今は、長老達が多く集ってきているので、一旦は辞退をするのが当然だろう。但し、以前に三浦へ遊びに行った時に、無くなった上総權介廣常と岡崎四郎義實が文句を言い合って喧嘩になった。三浦十郎義連がこれを旨くなだめたので、無事におさまった。その時の采配が見事だったので感心した。この子供は、御臺所政子が特に可愛がっているので、将来を考えて頼りになる人にしようと、考えた末に決めたのだ。」と仰せになられました。この上は、とやかく言う必要はありません。小山七郎朝光と八田太郎知重が灯りを持ってそばへ寄っていきました。梶原源太左衛門尉景季と同じ梶原の平次兵衛尉景高が、元服式の道具を持って参りました。三浦十郎義連が冠をかぶせました。実名は〔時連、あざなは五郎だとさ〕。今夜の元服しきの冠親の役はは、前もって決めていたわけではないので、自分ではないかと期待している者が多かっただろうが、頼朝様のその場での配慮に、文句を言う人はいないだろう。

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2009年7月28日 (火)

第九巻文治五年(1189)四月小三日癸亥

鶴岡八幡宮のお祭です。頼朝様が宮参りをなさいました。奉納の馬場での儀式は、飾り馬〔十騎〕流鏑馬〔十五騎〕競馬〔三番〕。その後、神社の本殿から門へとぐるりとめぐらされた廊下で、相撲〔十五番〕をしました。次ぎに三島神社への奉納です。流鏑馬〔十騎〕競馬〔三回〕相撲〔十番〕です。

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2009年7月27日 (月)

第九巻文治五年(1189)三月大三十日庚申

晴れました。白い帯のようなものが、空に横たわり、北斗七星の第一星を貫いています。長さは五丈(15m)ちょっとだとさ。

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2009年7月24日 (金)

第九巻文治五年(1189)三月大二十二日壬子

成勝寺の政務事務職の法橋一品坊昌寛は使者として京都へ上ります。お手紙を吉田經房卿に渡します。それは、泰衡の身勝手な言い分の返書は、少しも納得が出来ないので、さっさと征伐の朝廷の正式文書を出してくださいと、重ねての申し出であります。又、この機会に鶴岡八幡宮に五重塔建立の神様へのお願い文を、きちんとした文書に調へて欲しいと、内々にお願いされました。同様に開眼供養の指導僧を、それなりの身分の坊さんを一人、選んで欲しいと頼むように申されました。

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2009年7月23日 (木)

第九巻文治五年(1189)三月大二十日庚戌

亥の刻(夜十時頃)一条能保の使いが到着しました。手紙〔先の十三日の手紙〕を差し出しました。先日の九日に奥州平泉の藤原基成と泰衡の返書が届きました。義経を捕まえて突き出すと書いております。それなのに、後白河法皇は、そのとき仏教の行事ために天王寺におられました。〔先月二十二日に行かれました〕。その返書を院に診て頂いたら、早く捕まえて突き出すように、もう一度言ってやれと、その寺からわざわざ九条兼実に伝えました。又、同月十二日に、前行部卿難波頼経が、伊豆国へ流罪にすると朝廷から命令が出ました。息子の宗長も同様です。この他の事柄も全て院の裁定がありました。師中納言吉田經房もこのことを申し上げるでしょう。とのことです。經房の手紙の内容は、

 先月二十二日のお手紙が、今日手元に届きました。色々と申されている事、詳しく(院は)お聞きになられました。 出雲の代官右兵衛尉政綱の事については、すみやかに(二月二十二日条で解官要求)身柄を拘束するように、按察大納言〔朝方〕に命じられております。その大納言の言い分は、疑いを解くためにお送りします。だいたい、大納言をお嫌いになるのは、何が根拠なのでしょう。どう考えても思い当たる節が無いと驚かれております。もし、勘違いなら、その人のためには大変気の毒な事です。このようなことは、きちんと成否を調べてからお決めになられるのが宜しいのではないでしょうか。その手紙を早くお届け下さい。読んで戴くためです。その大納言は、二の句無く誓いの文書を書いております。それゆえ、おびえ驚いたと言っておりますので、この事から推察してみてください。 政綱の行いについては、それが事実ならば、罪あることなので、どうこう言う必要はありません。

 前行部卿難波頼経については、証拠の文書が出てきているので、検討の必要は無いので、早く流罪先へ行かせます。息子の左少将宗長も同様に職からはずします。朝廷のためにならない連中を、なんで放っておきましょうか。 比叡山の民部卿禅師は、一昨年命じられて捕まえておりましたが、経過があって許されたそうです。去年千光七郎が担当した時、比叡山に命じて、捕られるようになお命じたところ、一昨年捕られようとしたら行方知れずだと言っていた話です。ところが、なおも追求しましたので、捕まえて突き出したので、早く流罪先へ行かせたのです。

 流人については、京都朝廷の災いを取り除くために、罪一等を減じて許すかどうか、一旦は法皇からそちらに言い出されましたが、許すとの判断がありませんでした。そこで、何とか許したいと考えて言われたのにも、理由はあるのですが、何で勝手に決められましょうか。どうして簡単に取り決められましょうか。臼杵次郎惟隆達のことも勿論同様です。前兵衛尉為孝は、元々朝廷に仕えて居る者ではありません。今おっしゃられておられるので、右兵衛督一条能保に聞いた見ましたら、先日すでに関東へ行ってしまったと言っておられます。それなので、その返書を一緒に送ります。だいたい、色々と悪巧みを考えている連中の事も、院に仕えている者なので遠慮して言わないのだと言われると、それは到底面白くない事だと思われております。たとえ、朝廷に仕えているものであっても、院にたいし忠義を持たず、世のためには悪事をなすような連中の事は、許してやっても何の利益にもならないでしょう。早くお聞きになった内容をおっしゃってください。きっと処分があるでしょうから。先日から天王寺にお篭りをしているところなのです。それは、永い間の希望をかなえるために、思い立ったのです。だからといって、政務を放り出したわけではありません。摂政の九条兼実に申し付けてあり、又、兼実から相談もあるからです。お疑いを晴らすために、話のついでに言っておくようにとの事でした。

 奥州の朝廷への上納金については、来年の(後鳥羽)天皇のご元服の費用や、院の庁でのお入用やら、色々と物入りなのです。それなのに、泰衡が何もしないで怠慢していたのです。全くけしからん事です。早く納付するように、国司に命じてください。

 以上の事柄の、院からの仰せはこの通りなので、この通り書き出しました。

   三月十日       太宰権師藤原〔吉田經房〕

追伸します

 六条若宮八幡宮は、御所に近くだったと、恐縮されておられる事、法皇にお伝えしました。近所とはいえ、全然支障はありませんでしたので、何も遠慮はなさらないようにと言っておられます。このことをも、書かれたお手紙もありました。先月に二十七日に受け取っております。箇条書きの事は、頭弁(光雅)が天王寺の法皇のところへ伺いに行くので、彼に託したところ、先日の七日に京都へ戻りました。院からの返事がありました。そして按察使が書いた返書の案文を天王寺の院に診てもらったそうです。そんな訳で、すっかり遅くなってしまったわけなのです。余り遅いのでお疑いになられぬように申し上げます。

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2009年7月22日 (水)

第九巻文治五年(1189)三月大十三日癸卯

快晴です。鶴岡八幡宮の本殿のそばに、近頃五重塔を建てておられます。今日、一番天辺の金銅製の九輪を上げました。頼朝様は、見張られております。主計允藤原行政(二階堂)が特別にこれを指導担当しております。お帰りになられた後、去る十一日受け取った院の手紙への了承のご返事を整えさせましたとさ。

 二月十七日のお手紙を三月十一日に受け取りました。二つのお話を畏まってお受け申し上げます。

一つ 京都御所の建物、門、渡り廊下、築地塀について

 右の作業を来年正月前に、修理するようにとの頭弁の文書を拝見いたしました。こんな時にこそ私に命じて下さい。先例の布告のとおりに、割り当てを諸国に命じられて、その勤めをさせるのが良いでしょう。それならば、頼朝が支配している八カ国分は、特に書き出されてご命じ下さい。天皇の里内裏の修理も、院の六条殿の造作も、続いての勤めとなるけれども、それは私たちの義務ですから、今度の事もさらさら辞退するつもりはありません。天皇家の用事であろうと、御所の中の雑用であろうとも、三度にわたろうとも、頼朝が勤めるべき仕事でありますので、微力の及ぶ限り、頑張るつもりですよ。但し、諸国では年々荘園が増えていますので、国衙領は減ってきておりますので、国司の力も察する事が出来ます。さぞかし、どうしようもないでしょう。不都合な事だと思います。それでも、頼朝が支配している国々の分は、たとえその分もとおっしゃるような命令でも、内容の善悪を考えたりしないで、国衙の用事も力の限り要望に応えて片付けましょう。

一つ 熊野権現の領地即ち後白河院の領地でもある播磨国浦上庄(兵庫県揖保町)について

 右の大事な年貢は、湛政が集めて納付しましたと、梶原平三景時の代官が弁明していると文書を見ましたが、ひょっとしたら神社への奉仕を怠っているかもしれません。嘆かわしい事です。その荘園一箇所は、今の例を曲げて地頭職を止めさせるようにとの、修理権大夫が書いた文書も同様に拝見しました。お決めになられたことには、致し方の無い事だと思います。早く梶原平三景時の地頭職を止めさせるように、直接現地の荘園に命令をしてください。その後に、言う事を聞かなければ、重ねて命令を致しましょうね。例え平家没官領として与えられた所でも、別な仰せを戴いても、何故どうこう言いましょうか。ついでに、長門国阿武のご領地は、平家の領地でしたので、土肥次郎實平が九州合戦の帰りに支配いたしました。それを又、土肥弥太郎遠平に相続して支配しておりますが、院のご命令には、背かないように、引き上げさせましょう。それも、朝廷から直接言って行ったようですが、私から命令を出しておきました。また、九州の三潴庄の地頭の和田太郎義盛を止めさせた経過も、同様でした。全て、申された事は、皆全てこのように処理いたしました。この内容で、院にお伝えくださるように。謹んで頼朝が申し上げます。

  三月十三日            頼朝〔返信〕

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2009年7月21日 (火)

第九巻文治五年(1189)三月大十一日辛丑

京都御所の寝殿などの門や、建物を繋ぐ渡り廊下や築地塀が壊れてしまっているので、修理をするようにとの先月十七日の後白河法皇の手紙が今日届きました。是は、師中納言吉田經房が病気のために、今頃まで遅れたんだそうだ。

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2009年7月20日 (月)

第九巻文治五年(1189)三月大十日庚子

片岡次郎常春は、奇妙な行動があるので、領地〔下総国三崎庄、舟木、横根〕を召し上げられましたが、元の通りに返されました。ところが、担当者達が今までどおりにして、放ったままでいると訴えてきたので、無視を止めて手続きするように命じてくださいましたとさ。

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2009年7月17日 (金)

第九巻文治五年(1189)三月大五日丁未

前の大納言の平時忠さんが、先月の二十四日未刻(午後二時頃)に、能登国(能登半島)の流罪先で亡くなったと、今日関東へ報せが届きました。とても智恵のあるので、安徳天皇の治世で平家全盛の時は、何事も良く手助けをしていました。今でさえも、京都朝廷にとっては惜しむべきの人だと、頼朝様はおっしゃいました。また、死亡年齢が合ってないんじゃないかと思いましたが、何人か御前に詰めていますが、誰も知っている人がいません。そこで、大夫属入道三善善信に尋ねると、六十二才だと申し上げたそうだ。

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2009年7月16日 (木)

第九巻文治五年(1189)三月大三日癸巳

晴れました。鶴岡八幡宮の節句の法要を始められました。巳刻(午前十時頃)に頼朝様がお参りにこられました。八幡宮筆頭の法眼円暁とそのお供の坊さん達が神前に座って行いました。舞楽や流鏑馬〔十五騎〕や相撲〔十番〕の同様に奉納しました。

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2009年7月15日 (水)

第九巻文治五年(1189)二月大三十日庚寅

長門の国(山口県)阿武郡は、平家から没収されて院から与えられた領地なので、褒美として土肥弥太郎遠平に与えましたが、皇居修理の木材を調達する所としました。それで、地頭を引き上げるように朝廷から命令が出たので、撤退するよう命じられましたが、土肥遠平の代官が、今になっても居座っていると、小耳に挟んだので、なおも命令書をお出しになられました。

 命令する 長門国阿武郡について

 今までの地頭土肥遠平の代官へ さっさと郡内から出て行くこと

 右の地頭職は停止するようにと、院の事務所から命令書を出してきたので、土肥弥太郎遠平の代官は今でも居座って武力に物を言わせ横取りをしていると耳に入っている。その行為はとんでもないことである。さっさと郡内から立ち去りなさいとの命令はこの通りである。よって命令する。

   文治五年二月三十日

話は変るが、安房や上総、下総には、まだ耕作放棄の荒野が沢山あります。それなのに庶民は耕作をしないので、庶民も幕府も利益になりません。それなので、はぐれ者をかき集めて居座らせ、開発させて年貢に充当させるように、その土地の地頭に命じられましたとさ。

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2009年7月14日 (火)

第九巻文治五年(1189)二月大二十八日戊子

晴れました。丑の刻(午前二時頃)住吉小大夫昌泰が御所へ来て云いました。今夜見たこともない星が現れました。彗星かもしれません。頼朝様は、直ぐに寝床から庭に降りて、これをご覧になりました。三浦十郎義連と小山七郎朝光が前に居て、梶原源太景季と八田太郎知重が後ろに控えて、刀を着けています。夜中にお出になる時は、いつもこのように用心しております。この人達は、皆実直な用心棒です。

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2009年7月13日 (月)

第九巻文治五年(1189)二月大二十七日丁亥

鶴岡八幡宮の臨時の祭りは例の通りです。頼朝様は回廊に来られました。佐々木三郎盛綱が太刀持です。

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2009年7月10日 (金)

第九巻文治五年(1189)二月大二十六日丙戌

去年、奥州平泉へ遣わされた京都朝廷の役人の守康は、すでに京都へ戻るところで、今日鎌倉に泊まりました。八田右衛門尉知家に命じて饗応させました。守康が言う事には、義経のありかが分かりましたので、早く捕まえて突き出しますと、泰衡は返事を書いて申し上げています。(頼朝様が)おっしゃられたのには、そのことだが、どうも泰衡の腹の中はわかり難い。心底義経に味方しているので、先日の京都朝廷の命令書を無視して、突き出さなかった。それを今更、一時凌ぎに、命令に従いますと書いているが、凡そ嘘に違いない。まったく信用するには値しないなだとさ。

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2009年7月 9日 (木)

第九巻文治五年(1189)二月大二十五日乙酉

使い〔雑用の里長〕を奥州平泉へ行かせました。泰衡の動向を調べさせるためです。

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2009年7月 8日 (水)

第九巻文治五年(1189)二月大二十二日壬午

(頼朝様は)使い〔雑用の時沢〕を京都へ出発させました。義経が行方をくらましてから後の、京都朝廷のやりかたは、生温すぎるので、人なんてものは悪事をしないわけが無い。何故急いで対処しないのだと、申し入れるためなんだと。

一つは、奥州平泉の頭領藤原泰衡が、義経を匿っている事は、反逆者に同意している事は疑いようも無い。朝廷の許可を得て、罰を加えに行こうと望んでいる事。

一つは、藤原頼経卿は、義経に味方をしている役人である。役職を辞めさせて朝廷から追い出すように前に申し上げています。それなのに院からのお叱りは有ったと聞いていますが、未だに京都に居るので、納得が出来ません。

一つ 按察大納言〔葉室朝方〕、左少将藤原宗長、出雲侍従朝経、出雲目代兵衛尉政綱、前兵衛尉為孝の連中は、義経に味方している罪として、現在の官職を解雇してください。

一つ 比叡山の僧兵達は武器を携えて、義経に味方したことは、悪巧みを企んでいるので、叱ってくださいと先日申し上げましたが、その旨をご命令は出していただいたと聞きました。しかし、未だに弓矢や太刀、刀が比叡山に充満していると噂があります。

一つ 後白河上皇の夢のお告げによって、平家に味方して流罪になった人達を許して京都へ呼び返すことについて、坊主や平時実、平信基なんて役人の連中は何という問題も無いので、許して呼び戻される命令を出されたらどうですか。

一つ (源氏の)大切にしている六条若宮八幡宮は、法皇のお住まいの近所ですね。祭りの時に喧嘩が起こったなんて、お騒がせしてすいませんでした。

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2009年7月 7日 (火)

第九巻文治五年(1189)二月大二十一日庚巳

(頼朝様が)箱根権現の稚児達を呼びつけたので、昨夜到着しました。それは、来月三日の鶴岡八幡宮へ奉納する舞楽を勤めさせるためです。稚児姿が八人で、増寿、箱熊、寿王、閉房、楠鶴、陀羅尼、弥勒、伊豆石丸です。八幡宮長官の住まいで、今日から音合わせのリハーサルを始めました。山城介久兼が事業担当です。

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2009年7月 6日 (月)

第九巻文治五年(1189)二月大十二日壬申

一条能保の使いが参りました。義経の味方している連中が、未だいるようじゃないかと内々に(頼朝様が)申されたからです。又、京都御所の修理については、既に京都朝廷では決めたようです。治承年間に書き出した文書に基づいて、関東政権に命令を出すようだと噂を聞いたんだとさ。

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2009年7月 3日 (金)

第九巻文治五年(1189)正月小二十五日丙辰

若君(後の頼家数えの九歳)が、相撲?の勝負をしました。

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2009年7月 2日 (木)

第九巻文治五年(1189)正月小二十四日乙卯

御臺所政子様が、鶴岡八幡宮へお参りに行かれました。

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2009年7月 1日 (水)

第九巻文治五年(1189)正月小十九日庚戌

若君(後の頼家数えの九歳)の主催で、仮想の式典を催しました。それは、京都の大臣就任祝いのお食事会(大饗の儀式)を真似ているようです。大和判官代邦道が故実の物知りとしてこれを指導しました。しかし、近衛府の武官の真似も用意させましたが、平胡籙への矢の差し方や、丸緒の付け方が分からなかったのです。三浦介義澄が預かっている囚人(預かり囚人めしうど)の武藤小次郎資頼〔平家の侍で監物太郎頼方の弟〕が、その矢の事の昔からの伝統を知っていると言いました。三浦介義澄は、この機会に頼朝様のご機嫌を伺いながら言いました。ひそかに彼を呼ばれたとしても、若君の縁起の良い儀式なので、囚人身分の者を、どうして役に付けさせられましょうかなんだってさ。頼朝様がおっしゃるには、「早速罪を許しすから、それをやらしてくれ。」と言われたので、武藤小次郎資頼は、ホッと気を取り直して、それらを伝統どおりに整えてあげましたとさ。

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