亥の刻(夜十時頃)一条能保の使いが到着しました。手紙〔先の十三日の手紙〕を差し出しました。先日の九日に奥州平泉の藤原基成と泰衡の返書が届きました。義経を捕まえて突き出すと書いております。それなのに、後白河法皇は、そのとき仏教の行事ために天王寺におられました。〔先月二十二日に行かれました〕。その返書を院に診て頂いたら、早く捕まえて突き出すように、もう一度言ってやれと、その寺からわざわざ九条兼実に伝えました。又、同月十二日に、前行部卿難波頼経が、伊豆国へ流罪にすると朝廷から命令が出ました。息子の宗長も同様です。この他の事柄も全て院の裁定がありました。師中納言吉田經房もこのことを申し上げるでしょう。とのことです。經房の手紙の内容は、
先月二十二日のお手紙が、今日手元に届きました。色々と申されている事、詳しく(院は)お聞きになられました。 出雲の代官右兵衛尉政綱の事については、すみやかに(二月二十二日条で解官要求)身柄を拘束するように、按察大納言〔朝方〕に命じられております。その大納言の言い分は、疑いを解くためにお送りします。だいたい、大納言をお嫌いになるのは、何が根拠なのでしょう。どう考えても思い当たる節が無いと驚かれております。もし、勘違いなら、その人のためには大変気の毒な事です。このようなことは、きちんと成否を調べてからお決めになられるのが宜しいのではないでしょうか。その手紙を早くお届け下さい。読んで戴くためです。その大納言は、二の句無く誓いの文書を書いております。それゆえ、おびえ驚いたと言っておりますので、この事から推察してみてください。 政綱の行いについては、それが事実ならば、罪あることなので、どうこう言う必要はありません。
前行部卿難波頼経については、証拠の文書が出てきているので、検討の必要は無いので、早く流罪先へ行かせます。息子の左少将宗長も同様に職からはずします。朝廷のためにならない連中を、なんで放っておきましょうか。 比叡山の民部卿禅師は、一昨年命じられて捕まえておりましたが、経過があって許されたそうです。去年千光七郎が担当した時、比叡山に命じて、捕られるようになお命じたところ、一昨年捕られようとしたら行方知れずだと言っていた話です。ところが、なおも追求しましたので、捕まえて突き出したので、早く流罪先へ行かせたのです。
流人については、京都朝廷の災いを取り除くために、罪一等を減じて許すかどうか、一旦は法皇からそちらに言い出されましたが、許すとの判断がありませんでした。そこで、何とか許したいと考えて言われたのにも、理由はあるのですが、何で勝手に決められましょうか。どうして簡単に取り決められましょうか。臼杵次郎惟隆達のことも勿論同様です。前兵衛尉為孝は、元々朝廷に仕えて居る者ではありません。今おっしゃられておられるので、右兵衛督一条能保に聞いた見ましたら、先日すでに関東へ行ってしまったと言っておられます。それなので、その返書を一緒に送ります。だいたい、色々と悪巧みを考えている連中の事も、院に仕えている者なので遠慮して言わないのだと言われると、それは到底面白くない事だと思われております。たとえ、朝廷に仕えているものであっても、院にたいし忠義を持たず、世のためには悪事をなすような連中の事は、許してやっても何の利益にもならないでしょう。早くお聞きになった内容をおっしゃってください。きっと処分があるでしょうから。先日から天王寺にお篭りをしているところなのです。それは、永い間の希望をかなえるために、思い立ったのです。だからといって、政務を放り出したわけではありません。摂政の九条兼実に申し付けてあり、又、兼実から相談もあるからです。お疑いを晴らすために、話のついでに言っておくようにとの事でした。
奥州の朝廷への上納金については、来年の(後鳥羽)天皇のご元服の費用や、院の庁でのお入用やら、色々と物入りなのです。それなのに、泰衡が何もしないで怠慢していたのです。全くけしからん事です。早く納付するように、国司に命じてください。
以上の事柄の、院からの仰せはこの通りなので、この通り書き出しました。
三月十日 太宰権師藤原〔吉田經房〕
追伸します
六条若宮八幡宮は、御所に近くだったと、恐縮されておられる事、法皇にお伝えしました。近所とはいえ、全然支障はありませんでしたので、何も遠慮はなさらないようにと言っておられます。このことをも、書かれたお手紙もありました。先月に二十七日に受け取っております。箇条書きの事は、頭弁(光雅)が天王寺の法皇のところへ伺いに行くので、彼に託したところ、先日の七日に京都へ戻りました。院からの返事がありました。そして按察使が書いた返書の案文を天王寺の院に診てもらったそうです。そんな訳で、すっかり遅くなってしまったわけなのです。余り遅いのでお疑いになられぬように申し上げます。
最近のコメント