第九巻文治五年(1189)正月小十三日甲辰
夜になって、一条能保様の使い〔小間使いの荒四郎と言います〕が到着しました。先日の五日の位を授ける人事異動の文書を送ってこられました。従二位の頼朝様は、正二位を与えられましたとさ。
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夜になって、一条能保様の使い〔小間使いの荒四郎と言います〕が到着しました。先日の五日の位を授ける人事異動の文書を送ってこられました。従二位の頼朝様は、正二位を与えられましたとさ。
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今日は、若君(後の頼家数えの九歳)の弓始めの式です。射手は十人。若君用の住まいの小御所の南に面した庭でこの催しをしましたとさ。
一番 下河邊庄司行平 対 曽我太郎祐信
二番 小山七郎朝光 対 和田三郎宗實
三番 藤澤次郎淸近 対 橘次公成
四番 三浦十郎義連 対 海野小太郎幸氏
五番 榛谷四郎重朝 対 和田小太郎義盛
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正月の饗応の椀飯振舞は、何時もの通りです。何杯かお酒をお飲みになられた後で、今日はお日柄が良いので、正月明けて最初の弓を射る「弓始め式」をやろうと仰られました。まず始めに、下河邊庄司行平を指名すると、行平は弓箭を持って、弓場に歩み寄り、静かに蹲踞して衣服を方肌脱ぎにしました。そこで、今度は誰か自信のある者一人競ってみないかと仰られました。修理進季長が席を立って〔香の水干を着てる〕行平の後ろに蹲踞しました。しかし、行平は始めようとしません。頼朝様は、その不満な気配を読み取って、榛谷四郎重朝を指名しました。重朝は席を立って、行平と季長の間に蹲踞しました。やっと行平が紐を解いて、弓を持ち直して前へ進み出て弓を射始めました。季長は元の席に戻らずに恥ずかしくて逃げましたとさ。
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式部大夫中原親能が言ってきました。六条殿の修理の、割り当てられた建物については、丁寧に勤めを済ませましたので、特にお褒めの言葉を戴きました。これは、関東政権にとっても、じかに働いた者達にとっても名誉な事だと、頼朝様は大変お喜びになられましたとさ。
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権右中弁藤原親経が書いた院からの手紙と、師中納言吉田經房の手紙が届きました。内容は、伊勢神宮の式年遷宮の費用について、頼朝様の支配する関東の国々の納付を、早く命令してくださいとの事でした。但し、その中で免除されているところも混ざっているからとの事でした。
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頼朝様は、伊豆山走湯権現へお参りに出かけました。奈良の坊さん達の序列について、今回それを決められましたとさ。
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式部大夫中原親能の息子の一法師冠者能直が、左近将監に任命されたと、御所へお礼を言いに着ました。この人は、比べる相手の無いほど、(頼朝様に)可愛がられている人なのです。頼朝様の推薦で、前の十月十四日に任命を受けましたが、それから病気になって相模国大友郷に臥せっていました。今日初めて御所へ出勤したんだそうです。直ぐに御前に呼ばれました。
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義経に味方をしている比叡山の僧兵俊章については、取調べをしたいので早く突き出すように、僧兵達に命令を出されました。その文書は大夫属入道三善善信が書きました。その内容は、
一人か二人の悪巧みによって、なにゆえ皆が反発の心を持って構えようか。今から以後は、悪い連中を退去させないと、きっと良い僧達も、悪名を拭う事は出来ないぞ。だとさ。
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因幡前司大江広元の使いが、京都から到着して申し上げました。今月の三日に、法皇が熊野詣に出かけようとしました。しかし、その禊の期間中にお気に入りの言葉をかけられました。院の御所閑院と六条殿の修理などに良く勤めてくれたので、殊勝であるとの事でした。このようなお言葉を戴き喜びの涙を押えきれません。このお言葉も、ひたすら影に働いた力量によるものでしょうかだとさ。次ぎの話題は、大江広元の領地の周防国島末庄について、院の庁の官女三条局が、手紙で欲しいと訴えたので、師中納言吉田經房が院の命令で、所領になった経緯を質問してきたので、事情を書き出した由緒書きを差し出しました。きっと頼朝様に直接話があるでしょうから、大江広元が言上した内容をお知らせするために、その写しをお送りいたしましただとさ。
周防国島末庄の地主職について、
右の荘園については、周防の国の大島の真ん中にあります。大島は、平家合戦のとき、新中納言平知盛が、城郭を構えで居住して、数ヶ月以上居たので、島中の武士が皆従ってしまいました。それ以来、頼朝様の命として土地の所有者としての地主の職だけを認めていました。何事も、本来の荘園の義務である年貢の納付を守って、先例を崩すような横取りはしませんでした。調べていただければ、ちゃんと分かるはずです。但し、新たに院から注文があれば、どうこう言わずに、早々に仰せに従いますので、ご命令ください。
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義経追討について、京都朝廷から正式な命令書を出しましたばかりか、後白河院からの命令書も一緒に添えて、朝廷の下級役人の史生の守康がこれを持って奥州平泉へ行く途中で、今日鎌倉に到着しました。八田右衛門尉知家の家へ招いて、食事を与えました。また、その院からの命令書を開きました。そこに書かれていたのは、
後白河院の役所から命令をする 陸奥と出羽の国司へ
さっさと二度の朝廷からの命令書のとおりに、前民部少輔藤原基成と藤原秀衡の子供の泰衡とで、日をおかずに源義経を捕えて突き出す事
右は、問題の義経を、藤原基成と泰衡とで捕えて突き出すように、春頃に京都朝廷の命令書と後白河院の庁からの命令書を出しているのにもかかわらず、泰衡は命令を無視している。京都朝廷からの使者に恐れおののくわけでもなく、勝手に身分を越えた策略をもって、弁明すらいい加減にしている。特に中でも、義経達は未だに反抗の意思を確認しあって、確かに辺境の地陸奥に住んでいるとのことである。それが、すでにばれているとの噂がたっている。基成、泰衡よ、貴方達は天皇の支配する民であり、その地は天皇が支配している国内である。なぜに、愚かにも天皇の命令を聞かないで、反逆者たちに見方をするのだ。悪巧みが事実ならば、それは既に、前代未聞の出来事だ。義経に同意している罪は、責められても仕方の無いことだ。しっかりと二度の命令書の通りに、義経を捕えて突き出すように。もし、なおも隠し通して、官の発行した命令に従わないのならば、早速官軍を派遣して征伐してしまうぞとの手紙は、院の仰せはこの通りである。陸奥出羽の双方の国司は、よくこれを承知して忘れる事の無いように。命令する。
文治四年十一月 日 主典代織部正大江朝臣
別當左大臣藤原〔經宗〕 判官代河内守藤原朝臣〔淸長〕
大納言兼左近衛大將藤原朝臣〔實房〕 右衛門權佐兼和泉守藤原朝臣〔長房〕
權大納言藤原朝臣〔宗家〕 左近衛權少將藤原朝臣〔公國〕
權大納言兼右近衛大將藤原朝臣〔兼雅〕 少納言兼侍從藤原朝臣
權大納言藤原朝臣〔忠親〕 勘解由次官平朝臣〔宗隆〕
權大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣〔朝方〕 權右中弁藤原朝臣〔親經〕
權大納言藤原朝臣〔實家〕 右少弁兼左衛門權佐藤原朝臣〔宗經〕
權中納言藤原朝臣〔實宗〕 左少弁平朝臣〔棟範〕
權中納言兼右衛門督藤原朝臣〔頼實〕 右中弁藤原朝臣〔親雅〕
權中納言藤原朝臣〔定能〕
權中納言源朝臣〔通親〕
權中納言兼大宰權師藤原朝臣〔經房〕
權中納言藤原朝臣〔泰通〕
參議藤原朝臣〔親信〕
參議左大弁兼丹波權守平朝臣〔親宗〕
參議左兵衛督藤原朝臣〔隆房〕
右京大夫兼因幡權守藤原朝臣〔季能〕
宮内卿藤原朝臣〔季經〕
内藏頭藤原朝臣〔經家〕
右近權中將兼播磨守藤原朝臣〔實明〕
修理大夫藤原朝臣〔定輔〕
大藏卿兼備中權守藤原朝臣〔宗頼〕
造東大寺長官左中弁藤原朝臣〔定長〕
修理權大夫藤原朝臣〔頼輔〕
丹後守藤原朝臣〔長經〕
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式部大夫中原親能の伝令が京都から着きました。先月の二十五日、東大寺の境内で寺の僧兵と武家の使いが乱闘を起こし、双方の死傷者が数十人もでました。今日、二十九日に京都に駐屯している武士達を奈良へ派遣しようと思いましたが、(武士が奈良へ攻め込むという)国にとっても一大事になってしまうので、やめさせるように一条能保及び式部大夫中原親能に命令を出したので、とりあえず中止しました。直ぐに、要望の通りに武士の派遣を止めた事を、師中納言吉田經房に報告をしましたとさ。この事件の発端は、高太入道を殺害した事情を調べるように、頼朝様が命令されたので、式部大夫中原親能が使いを奈良へ派遣して調べようとしていたら、その調査を出来ないうちに、この事件が起きてしまいましたとさ。
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大庭平太景能の父の景宗のお墓が、相模国豊田庄にあって、盗人の群れが攻め込んできて、その墓を掘り暴いて中に納めてあった金目の物を盗み取って行きました。追いかけて捜しましたが、逃げられて行方が分かりません。良く考えてみると、ことの始まりは先日の狐の行き倒れを見つけたことだろうと思われるので、人々は不思議な事だと思いましたとさ。
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隠岐守仲国が訴え(先日の手紙)について、ご返事を出された上で、国衙の役人在庁官人に命令をお出しになりました。
先月二十七日のお手紙が、今月の十八日に受け取りました。謹んで拝見いたしました。隠岐守仲国が訴えている三つの事について申し上げます。それは頼朝が裁決をした命令書をお送りします。前任国司の惟頼が支配していた中村飛び地については、結論は法皇様からの手紙にあるとおりです。この内容でお伝えいただくように。頼朝が恐れながら申し上げます。
十一月二十六日 頼朝
命令する 隠岐国国衙の役人達へ
早く、犬来牧と宇賀牧以外で、宮内大輔重頼が支配している所は、国衙が支配する事
右の所は、元平家が所有していたので、重頼を現地管理職に任命していました。ところが、犬来牧と宇賀牧以外は元平家の領地ではなかったと、国衙の役人達が神に誓って書いた上で、国司の仲国に訴えました。国司もそれを法皇様に訴えたので、後白河院が命令して来られました。早くその犬来牧と宇賀牧双方以外は、重頼の官吏をやめさせ、国衙の官吏とすることはこのとおりです。そこで命令します。
文治四年十月二十三日
命令する 隠岐国国衙役人資忠へ
早く京都へ上って、国司の命令を実行する事
右の資忠は、国衙の役人であるのに、国司の仕事を手助けすべきところを、国司の命令を聞かないので京都へ行きません。場合によっては割り当てられた年貢を納付していないと訴えがあったので、後白河院からわざわざ言って来られました。資忠のやっていることはとんでもないことです。早く日をおかずに京都へ出かけて、国司の言う事をを守るように命令するのはこのとおりです。
文治四年十一月二十二日
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西風が激しく吹いて、雪が降りました。今朝の夜明けに大庭平太景能の庭で狐が倒れて息絶えていましたとさ。怪しい出来事なので、門を閉じて謹慎しましたとさ。」
今日、法皇に命じられた師中納言吉田經房の手紙が届きました。(七月十三日条記載の)隠岐守仲国が訴えてきた国衙の役務についての内容(宮内權大輔重頼の横取り)を良く調べて処置してくださいとの内容なんだとさ。
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頼朝様の甥(従兄弟の間違い)に当たる僧の任憲が参りました。未だに会った事も無く良く分からないので、質問してみると、故祐範の子供だと言っております。そこで、北の私邸の客間へお呼びになり、丁重にもてなしました。その祐範は、季範様の息子で頼朝様のお母さんの弟です。お母さんが早死にした時に、七日目毎の供養に(故祐範が)澄憲法印をお呼びになり、成仏のためお経を唱えさせました。それだけにおわらず、永暦二年に伊豆国へ流された時に、下男一人を付けさせて送って来てくれ、それから毎月使いをよこしました。そのような恩義を忘れる事はありません。そこへその息子がたまたまやってきたので、これもご先祖様のおかげの良いかたみだと大変お喜びになられましたとさ。
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鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の樹木が風も無いのに倒れました。大庭平太景能が状況を報告したので、頼朝様もお出かけになり、拝見されました。(これは何か神様が機嫌が悪いのだろうと)馬や供え物を奉仕して、神様にお詫びをしましたとさ。
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先日の十八日に(後白河法皇の宅)六条殿の棟上式をしましたとさ。関東が負担している造作を勤めていた連中は、仕事が終えたらすぐに京都から帰るように、前もってその命令を担当責任者の事務方に告げて置くように、今日式部大夫中原親能のところへ通知を出させましたとさ。
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義経を討伐するようにとの、京都朝廷の命令書宣旨の写しが届きました。本文は、朝廷の下級官吏が奥州平泉へ持って行きますとさ。
文治四年十月十二日 宣告する
前伊予守源義経は、悪心を起こして、早々に今日の都から出て、好き勝手に嘘を上手について、奥州平泉へ逃げていきました。それなので、前民部少輔藤原基成とその娘婿藤原秀衡に息子の泰衡達に命じる。例の義経を捕まえて差し出すように、前にも命令を出しています。それなにの天皇の命令を恐れもしないで、やたらと弁解ばかりしている。あまねく天の下は天皇の支配なのに、何を根拠にそのようなことをしているのだ。そればかりか、義経がその国の中へ逃げ込んだと、確たる噂を聞いている。月日を重ねて詳しく捜索をすれば、必ずや隠れている場所が顕かになるはずだ。義経の野心に加担するというのは、朝廷の権威を軽く見て命令に従っていないじゃないか。ことに泰衡は、先祖から四代目を継いで、その威力は陸奥一国に及んでいるではないか。支配下の世間で、従わないものがあろうか。なお、その泰衡に命じるが、日をおかずに義経の身柄を提出するように。もし、義経の見方をするのなら、さぞかし後悔しても遅い事になるだろうよ。一心に京都朝廷の命令を守って、悪人の義経に味方しなければ、その手柄に従って褒美を賜るであろう。もし、義経に従って、なおも反逆を企むのならば、官軍を出動させて征伐していまうぞ。天皇の命令は重いものである。これに逆らってはならない。
蔵人右衛門権佐藤原朝臣定経〔命じられて書きました〕
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大庭平太景能は、先日から鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の辺りに小屋を建てました。これは、八幡宮警備の詰め所です。今日、頼朝様が初めて赴く儀式を行いました。その庭には沢山の木々を植えました。木々はちょうど紅葉の真っ盛りで錦のように綺麗なので、紅葉狩りの宴会に丁度良いですよと言われたので、頼朝様がその建物へ入られたからです。八幡宮代表の別当円暁が参加して、酒宴の間は稚児たちが延年の舞を踊っていましたとさ。
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比叡山の荒くれ坊主共の中に、俊章と言う者がおります。以前から義経と強い交友関係を持っています。それなので、今回の義経が放浪しているのを数日かくまっていました。又、奥州平泉へ逃げていく時にも、子分たちを引き連れて長い旅路を送っていきました。京都へ戻る途中で、蜂起したと噂があります。そこで、内密にその行動を探って、ふんづかまえてしまうように、京都に在住の御家人達に命令を出されましたとさ。
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