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2009年5月29日 (金)

第八巻文治四年(1188)十月小十日壬申

浮雲が所々にたなびいています。雨が少し降りましたが直ぐにやみました。巳刻(午前十時頃)巌谷堂の聖(隠世僧)阿弥陀仏坊(浄土教らしい)が勝長寿院へ詣でて仏様を拝んだ後に、帰路の途中であっけなく急死しました〔八十四歳〕。珍しい事です。すぐに当寺の僧侶の良学の指図として、入棺し亥刻(午後十時頃)に野辺送りをして、藁で火葬にしたそうです。それにしても、近頃は人々の間に頓死が多くなって来たんだそうだ。

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2009年5月28日 (木)

第八巻文治四年(1188)十月小四日丙寅

衛門権佐定経の奉書で言ってこられた備前国福岡庄の事について、今日ご返事を送られました。

 先日、院が仰せになってこられた備前国福岡庄については、平家没官領に書かれていたので戴きました。それなのに元性宮法印坊さんが、讃岐院崇徳上皇の命日として讃岐国の儀式を勤仕するのが難しいと、嘆いてこられたので、その荘園をその資産としてお使いになられるように、余り深く考えずに寄付してしまいました。特にいけないことだったのでしょうか。それなのにこのように言って来られたので、早くお決めになっていただければ、それに従いましたのに。ご命じになっていただければ、たとえ些細な事でも、放って置くようなことはありません。このような趣旨でお伝えいただくように、頼朝が恐縮してお伝えします。

  十月四日           頼朝〔紙の裏に花押を書く〕

  差し上げます  右衛門権佐殿〔定経〕

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2009年5月27日 (水)

第八巻文治四年(1188)九月小二十二日乙卯

信濃国(長野県)伴野庄の年貢については、未納だと何度も言って来られるので、今後この内容について同様の問題が起こるならば、特に厳しく戒める事になるぞと、小笠原次郎長淸に命じましたので、これを納付しました。そこでこの事を師中納言吉田經房に伝えさせましたとさ。

 信州伴野庄の年貢については、命令に従い納付しましたと、地頭の小笠原次郎長淸が申しております。恐れながら申し上げます。

    九月二十二日           頼朝

   申し上げます 師中納言殿

  追伸

   何処の御蔵に検査を受けて納めたらよいのか、お知らせくだされば、毎回文書は出しませんが、地頭に命令しておく事にします。

  重ねて恐れもうしあげます。

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2009年5月26日 (火)

第八巻文治四年(1188)九月小二十一日甲寅

岡崎四郎義實は、先月の敗訴の罰として、鶴岡八幡宮と南御堂勝長寿院の夜間警備奉仕をするように、命令を受けてたのが、重荷になって気に病んでいました。そしたら岡崎四郎義實の家来が箱根山中で山賊の親分〔呼び名を王藤次と言う〕をふんづかまえて突き出したので、今日、免除に預かったところです。

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2009年5月25日 (月)

第八巻文治四年(1188)九月小十四日丁未

尊南坊僧都定任が、熊野からやって参りました。この人には、頼朝様が以前から大事にしている持仏〔大将王尊〕とご祈願を書いた文書を預からしております。ご祈祷のための修行を積んでおります。頼朝様は、現世と来世の宿願成就を期待しておられます。実は、城四郎長茂は、平家の一族として、関東に反逆したので、囚人として梶原平三景時に預かれせているのであります。この男が又、定任を仏教の師匠と旦那の仲なのです。それなので、定任が頼朝様にお会いしたついでに、許してあげて御家人に加えてあげてくださいと、盛んにとりなすので、頼朝様は御家人に任命するようにおっしゃられました。今日、定任が御所に来たので、御簾の中へ呼ばれて、世間話をしていました。御家人達は、侍所〔二行で東側を上席としました〕に座っております。南側の筆頭は畠山次郎重忠が、北側の筆頭は梶原平三景時です。そこへ城四郎長茂が入ってきました。皆がみつめると、背丈が七尺(210cm)もある大男です。白い麻の水干に立て烏帽子をつけて、二列に並んで座っている中を通り、歩み出て、上がりがまちに座り、御簾に背を向けてしまいました。御簾の内から頼朝様はチラッと見て何も云いませんでした。定任は、(推薦した城長茂の)この無作法な様子に赤面してしまいました。梶原平三景時が城長茂に対して言いました。その場所は、頼朝様のお出ましの間なんだぞと。城四郎長茂は知らなかったと云いながら、立ち上がって出て行ってしまいました。それからは、定任は推薦を取り消しましたとさ。この長茂〔本名は資茂〕は、鎮守府将軍〔余五(十五男)〕平維茂〔平貞盛の弟です(維茂は貞盛の弟繁盛の子)〕の男、出羽城介繁成の七代目の子孫です。維茂の勇敢さは先祖に恥じないほどであり、当時の人は皆その力に恐れ入って、将軍に任命される以前から、強いて将軍と呼んでいました。それなのに武士なので武力を本業をしてはいますが、毎日法華經を八巻づつ摺り読みして、年に六十巻〔仏教の奥深い教義玄義法華文句、瞑想法の摩訶止観〕一部を読んでいました。又、恵心僧都源信にお会いして、極楽浄土への往生について語り合いました。繁成は、生まれて直ぐに行方不明となり、悲観にくれながらも余念を経過したある日、夢のお告げによって捜し求めたところ、狐塚でこの子を発見して家へ連れ帰りました。その狐が老人に変化して、突然尋ねてきて刀と挿し櫛を子供に与えて云いました。私老人が人里離れた所で育てていれば、日本を征服するような英雄になったでしょうが、人里へ降りた今では、その位につく事は無いでしょうと云ったそうな。この子供が繁成なのです。城四郎長茂はその子孫を継いで、刀は今でも持っているそうです。

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2009年5月22日 (金)

第八巻文治四年(1188)九月小三日丙申

宮内大輔藤原重頼の横領の事を、後白河院から言ってきたので、早く止めるように宮内大輔重頼に命じられました。又、朝廷の願いを祈る勅願寺の領地の年貢の納付について、それぞれに聞いてみたけれども、地頭達が受け取るべき年貢受領書が、未だにそろっていないので、遅れている事を申し上げられました。

 若狭国司が云っている松永(若狭国遠敷郡、小浜市)、宮川保(小浜市)の地頭宮内大輔重頼は、国衙の命令に従わない事については、非法を止めるように命令書を作成したので、写しを送ります。

 右の表題の事は、院の云うとおりでしょう。領家はまともにしていても、地頭がちゃんとしない所が多いですね。或いは逆に、地頭がきちんとしていて、年貢を滞らせてもいないのに、領家の中には、地頭を悪く言って、勝訴に悪乗りして、訴える事もあるでしょうと、聞いてもおります。それならば、院の事務所へ呼び出して、真偽を調べて、ご判断いただければ、不当な事をしている地頭は、恐れ入って忠義の心を呼び起こすでしょうね。又、まともな地頭は、世の道理を承知している事でしょう。勤めをするかどうか、呼びつけて迫ってみたら如何でしょうか。但し、若し呼びつけても来ない奴等もいるでしょうから、名簿を出していただければ、朝廷へ赴かせましょう。このような内容で、院へ申し上げてください。頼朝が恐れ敬い申し上げます。

   九月三日         頼朝〔紙の裏側に花押を書きました〕

 追伸します

 先日の六月四日に戴いたお手紙の中に、おっしゃってこられた金剛心院と蓮華王院の年貢の納付の未済について、調べてみたところ、地頭達の在所と領地とがあちこちの国に離れているので、今現在では未だにそろっておりません。それで遅れている事を恐れ多いと思っております。追伸でこのことも申し上げておいてください。恐れながら申し上げます。

  命令する 若狭国松永と宮川の保に居る地頭へ

  さっさと今までの例の通りに国衙への業務を果たす事

 右の土地について、地頭の宮内大輔重頼は、物事を地頭である事をよいことにして、国衙の運営を力ずくで邪魔するので、国衙から朝廷への上申書によって、院から命じてきました。早く地頭の担当できる事意外の、国衙の業務については、無法な邪魔立てを止めて、先例の通りにその業務を果たすように命じるのはこのとおりです。そこで命じます。

   文治四年九月三日

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2009年5月20日 (水)

第八巻文治四年(1188)九月小一日甲午

加々美信濃守遠光の娘が、幕府に仕えるために、初めて頼朝様に面接をしました。その呼び名を大弐局と名乗るように、仰せになりましたとさ。加々美信濃守遠光はお酒を勧めましたとさ。

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2009年5月19日 (火)

第八巻文治四年(1188)八月大三十日癸巳

諸国で殺生禁断するようにとの、朝廷からの宣旨の手紙が届きました。頼朝様は、その内容をお受けしました。宣旨の手紙にはこう書かれています。

 文治四年八月十七日 宣旨(命令)

 折衝をしてはいけないという仏教の戒律は、厳しく幾重にも重なっている。それなので、去年の十二月に特に天皇からの命令を出されました。それなのに、地方の連中は、どうかすると禁じられている法を犯していると耳に入ります。中でも、川に毒を流して魚を浮かして捕ったり、山焼きをして獣をいぶりだし、狩をしたりすることは、規則の中でも特に罪が重いのです。猪や鹿といった獣を撮り尽くしてしまうばかりではなく、鳥や魚でさえも、罪深いのです。心の内では、仏の戒律を破り、外見には法律に背いています。良く五畿内、七道の諸国に命令して、永く禁制に従わせてください。

                 蔵人頭右中弁兼忠

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2009年5月15日 (金)

第八巻文治四年(1188)八月大二十三日丙戌

波多野五郎義景と岡崎四郎義実が、頼朝様の御前で対決をしました。その内容は、相模国波多野本庄の北側は、波多野五郎義景が先祖代々受け継いできた領地なのです。それなのに、波多野義景が京都へ駐在している隙を狙って、岡崎義実が乗っ取りにかかりました。京都から帰ってきた波多野義景が申し上げるには、当地は、保延三年正月二十日付けで、祖父筑後権守遠義が二男義通に相続したと云われています。又、嘉應元年六月十七日に、義景に相続の後、困った事が無かったのに、何を根拠に要求するのでしょう。その内容を審議している時に、岡崎義実が言うのには、孫の先法師冠者に相続すると、波多野義景が以前に書いた書状があるとの事なんだとさ。波多野義景が反論するのには、先法師は、波多野義景の外孫である。だから譲り状を預けたけれど、祖父の私が生きている間は、何故名乗りを上げて欲しがるものでしょうか。それは岡崎義実の悪巧みでしょうよだとさ。岡崎義実は負けて、孫の将来に備える為に申し上げた次第だそうです。頼朝様が裁決して申されるには、当地の進退の権利は、波多野五郎義景の意思による。岡崎四郎義実の企みは、とても不当である。その罪の落とし前として、百日間の鶴岡八幡宮と勝長寿院の夜間警備を奉仕するようにとのことなんだってさ。

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2009年5月14日 (木)

第八巻文治四年(1188)八月大二十日癸未

前の検非違使平康頼入道が、三月十四日に続き、又も訴えの手紙を後白河院へ提出しました。この内容は、阿波国麻植保おえのほう徳島県吉野川市鴨島町麻植塚)の管理者保司職の事ですが、地頭の 小野三郎刑部丞成綱が武力に物を言わせて、保の役人に従いませんので、恩賞の貰いがいがありません。そればかりか、朝廷の内蔵寮への年貢が欠如しているので、野三刑部丞成綱の地頭職を止めさせるように、後白河法皇からの命令院宣をよこされました。あれもこれも、頼朝様は驚きになられました。地頭を諸国に任命しているのは、京都朝廷の威光を促し、国の乱れを治めるためなのです。それなのに、朝廷の公領の年貢を差し押さえるので、穏便でないとの命がありました。野三刑部丞成綱は地頭職を持っていても、領家に介入してはいけないと、お命じになられましたとさ。

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2009年5月13日 (水)

第八巻文治四年(1188)八月大十七日戊寅

一条能保の手紙が届きました。道沿いで盗人の群れが出没している事について、疑わしい者は、あちこちに連絡し終えました。特に、比叡山室谷の竹林房に主の来光坊永実と、一緒に住んでいる千光坊七郎と名乗る坊主が、悪党や浪人を集め連れて、夜襲等の悪い事をしていると広く噂になっていると、後白河法皇に報告しました。そこで朝廷は、比叡山幹部僧侶の法印円良に命じて、捕えて突き出すように伝えたところ、先日の四日にその坊主を捕えて突き出すと返書を差し上げたそうです。又、別な話ですが、藤原宗長は、岩清水神社の訴えによって、先日の五日に流罪の命令書が出されました。土佐だそうです。

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2009年5月12日 (火)

第八巻文治四年(1188)八月大十五日戊寅

鶴岡八幡宮での供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式の放生会です。頼朝様が出席なされました。始めに仏教儀式と奉納の舞です。次ぎに流鏑馬です。海野小太郎幸氏や諏方大夫盛澄が、これを射ました。

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2009年5月11日 (月)

第八巻文治四年(1188)八月大九日壬申

比叡山の僧兵達が、義経に味方している事と、前民部少輔藤原基成と泰衡が義経を匿っている事について、京都朝廷の対応がとても遅れています。急いでちゃんと事情を説明するように申し入れろと、右武衛一条能保に伝えさせましたとさ。

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2009年5月10日 (日)

第八巻文治四年(1188)七月小二十八日壬戌

式部大夫中原親能は、武力をひけらかして、他人の領地を横取りして、年貢を差し押さえてしまったので、院から詰問があったけど、弁解出来ないで居ると(京都朝廷が)言いつけてきたので、頼朝様は中原親能の所へ問い合わせてみたら、詳しい事は云えませんでした。但し、先月六月にすでに弁解状を提出しておりました。その案文を献上しているので、もしかしたらこのことでしょうかと云って来ました。間違えはしていなかったのだなと、頼朝様は感心なされましたとさ。

 謹んでご返事いたします

    院からのお手紙の二つの件について

 一つは、駿河国蒲原御庄(後白河院が本所)の院への年貢について

  右のその荘園は、大外記(中原)師尚と親しくしているので、あえて彼に管理を負かせておりますが、内内に調べてみた処、文治元年二年の二年分は、取立てが終わって割戻しを受けました。ですから師尚さんに聞いてみるのが良いでしょう。去年文治三年の分は、先だっての四月に船に積んで出航し終えました。

一つは、越後国大面御荘(後白河院が本所)の院への年貢について

  右のその荘園は、文治元年と二年の二年分は、領家〔中納言入道(源政頼)〕に運び届けると、現地実行者が報告しています。もし、合点がいかないのなら、荘園経営の請負人を寺領管理者に行かせて、明細をお話ししましょうか。去年の分の早稲米は、領家に納めました。晩生米は、船に積んだけれども、未だ到着したかは承っておりません。場合によっては、現地の荘園の倉庫に未だ置いてあるかもしれませんとの事です。院からの命令書により、荘園の管理事務を止められたので、現地支配人を引き上げさせたので、積み出しをしていない事を申し上げます。以上の二つの事柄についての弁明は以上の通りです。中原親能が敬って申しあげます。

  文治四年六月十一日          散位藤原朝臣中原親能

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2009年5月 9日 (土)

第八巻文治四年(1188)七月小十七日辛亥

右兵衛督一条能保の伝令が着きました。去年の夏頃に、御家人の藤原宗長と岩清水八幡宮の神社に使える下職の神人とが喧嘩をしました。神人が多少怪我をさせられたので、先日の十一日に、院から(処罰しろと)手紙が出されました。この事は、何度も云ってきているけど、安易に突き出してよいものかでしょうかとの事です。それは、仲間の御家人達が当てにならないと思うので、躊躇していたところ、(院宣が出るという)重大事件になってしまいました。どう対処したらよいのでしょうかなんだとさ。直ぐに院宣を添えて送ってきました。

 供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式「放生会」の輿を担ぐ神社の下職達が訴えている事については、法印成清の訴状を送ります。この事によって、去年は神事が出来ませんでした。今年も、おかしくなる事は間違いないでしょう。それは、天皇家にとって一大事ではないでしょうか。神社からの訴訟には理屈が通っていないかも知れないけど、神様の事は別物なので、一旦は罰して、後で許してやるのが常套手段です。それなので、その宗長は、先ずはその罪を償わせて、後ほどその後の処分を考えてください。従って、たいした親しい訳でも無いでしょうし、単なる家来じゃないでしょうか。そこで、朝廷や頼朝様の爲にも、ここは忠義を表わして、強いて捕えるように、申されないとすれば、後白河院のご機嫌は良くは無いでしょうね。命じられて書いたのはこの通りです。

     七月十一日申刻             勘解由次官宗隆

   申し上げます  右兵衛督殿〔能保〕

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2009年5月 8日 (金)

第八巻文治四年(1188)七月小十五日己酉

父左典厩義朝の供養のために、勝長寿院で先祖供養の一万もの灯火を点ける法要をきちんとなさいました。大内武藏守義信と一緒に千葉介常胤、足立右馬允遠元が実行委員をしました。二品頼朝様と御台所政子様のお堂への参拝が有りましたとさ。

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2009年5月 7日 (木)

第八巻文治四年(1188)七月小十三日丁未

武蔵国平沢寺の寺主職を僧の永観に与えられました。一方、師中納言〔吉田經房〕が命じられた書いた奉書が届きました。隠岐守仲国が訴えております。宮内権大輔重頼が地頭だと云って、あちこちを横取りしているとの事です。そこで、返事を申されました。隠岐守仲国が訴えている重頼の横取りは、けしからん事なので、手紙で重頼に命令をし終えた。と言う内容は、

 隠岐守仲国が訴えについて申し上げます。この事を後白河院から云って来られました。聞いているような、乱行はけしからんことです。そこで考えてみるとそのあちこちを、どうして支配する事が出来ましょうか。その中村別府には、地頭を任命した覚えはありません。どういうつもりなんですか。そこで云われている事はこの通りに書きました。

      七月十三日              花押

   宮内大輔重頼殿

その他にも、美濃国のあちこちの郷の地頭が横取りしている事、能盛入道、為保、成季達が送ってよこした手紙(折紙)と在庁官人の調査報告書も一緒によこされました。又、美豆牧の管理者が云っている本庄や高運島の事は、梶原平三景時の代官が年貢を納めないとの事は、調べて命じますと云って来ているので、きちんと調べて命令書を出すようにとの事でした。

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2009年5月 6日 (水)

第八巻文治四年(1188)七月小十一日乙巳

六条殿の工事について、頼朝様の支配している国の義務としての分は、掃部頭中原親能が指示をして、棟梁の国時に造らせようと考えました。(話し変って)遠江国の納税について、(後白河院が)手紙をよこしましたが、今日届きました。直ぐにそこの国を管理している国司の安田三郎義定に預けましたとさ。

 六条殿の修造については、六条通りに面した築地塀一町(100m)、門などを作ってくれるように、後白河院の希望なので、お知らせいたします。

   六月二十七日         権右中弁〔定長〕

     遠江守殿〔安田三郎義定〕

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2009年5月 5日 (火)

第八巻文治四年(1188)七月小十日甲辰

若君〔万寿君数えの七歳(後の頼家)〕初めて鎧を着ました。御所の公邸南面でその儀式が有りました。予定時刻に頼朝様が御出になられたので、江間殿〔義時〕が前へ進んで、兆台のすだれを上げられました。次ぎに若君がお出になられました。大内武藏守義信〔乳母の夫〕、比企四郎能員〔乳母の兄〕が手助けをしました。少し経って、小山兵衛尉朝政が、鎧と直垂〔青を基調とした模様織り〕を持って来て、古い衣装を新しい衣装に着替えてあげました。小山朝政が袴の腰紐を結んであげました。次ぎに千葉介常胤が鎧を入れる箱を持ってきました。息子の千葉太郎胤正と相馬次郎師常が担いで来て前を進みました。東六郎大夫胤頼も手助けをしながら常胤の後ろについております。千葉介常胤は、鎧を南に向けて立て飾りました。その間に、梶原源太左衛門尉景季は剣を献上しました。三浦十郎義連も同様に剣を献上しました。下河邊庄司行平は、弓を持ってきました。佐々木三郎盛綱は征矢(鋭い鏃(やじり)をつけた、戦闘に用いる矢。尖(とが)り矢。)を献上しました。八田右衛門尉知家は、馬〔黒で鞍置き〕を献上しました。息子の八田太郎知重がこれを引いて披露しました。三浦介義澄、畠山次郎重忠、和田太郎義盛達が手助けして、馬に乗せました。小山七郎朝光と葛西三郎淸重が轡を取ります。小笠原弥太郎と千葉五郎、比企弥四郎時員が馬の左右について、三度南庭を乗り回し、降りられました。今度は、足立右馬允遠元が抱き上げて、鎧などを脱がせました。堀藤次親家が、具足と馬を受け取って、厩や納戸にしまいました。その後、(お祝いに)平賀武藏守朝雅が馬を頼朝様に献上しました。里見冠者義成がこれを引いて披露しました。ついで、西の侍所で宴会です。頼朝様は、池に突き出した釣殿の西側〔上の母屋で簾越し〕にお出になられました。平賀武藏守朝雅が準備をしたのです。最初の一杯のお酌は小山七郎朝光、二杯目は、三浦平六義村、三倍目は、葛西三郎淸重です。(宴が終わって)寝殿へお入りになった後で、平賀武藏守朝雅は、酒肴とすずし絹一着と小袖五着を御台所(政子)に届けました。若君の祝い事を述べるためです。

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2009年5月 4日 (月)

第八巻文治四年(1188)七月小四日戊戌

信濃守加賀美遠光が、とても大事に可愛がっている娘を、幕府の御所へ初めて連れてきました。(頼朝様は)若君の面倒を見るお側付きに、お決めになられました。

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2009年5月 3日 (日)

第八巻文治四年(1188)六月大十九日癸未

春分と秋分のお彼岸の生き物を放つ儀式の放生会には、関東では生き物を捕ることを禁制しましょう。それだけでなく、山焼きによる狩や、毒を流しての漁などの残酷な方法は、今後とも止めさせるようにお決めになられました。国々へ布告されるように、後白河法皇に申し上げるようにとのことだとさ。

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2009年5月 2日 (土)

第八巻文治四年(1188)六月大十七日辛巳

常陸房昌明は、最近京都から参った者なのです。元は延暦寺に住んでいて、武勇で名の通った人です。特に前備前守源行家を討ち取ってからというもの、人は彼に一目置くようになったんだとさ。それなのに、強田あたりに領地を持っていたのですが、思わぬことに地頭職を取上げられてしまったので、憂い訴えるために京都へ上ろうと考えました。便宜を図ってもらうように、お手紙を京都駐屯の御家人に対し、一筆書いて下さいと望んで言上しました。そこで、昌明が京都に居る間は、旅行用の食料を希望したら望みどおりに与えるように、一条能保に言いつける手紙を、昌明に与えられました。昌明は内緒でその手紙を開いて読んでしまい、怒りながら手紙を持って文句を言いました。このお手紙は、わざわざ申し出たのにです。でも、この趣旨を良く考えてみたら、一見恩を与えられたように思えるけど、まるで罰のようだ。どうして恥ではないと云えるだろうか。全然旅行の為の食料を望んだわけではない。訴えに京都へ行くので、単に用心のためなのだ。勇敢な武士だとの褒め言葉には、有り難い事だと云ったので、頼朝様はお気にいられ、直ぐに筑後權守俊兼に命じて、書き換えさせました。僧ではあるけれども、勇士である。京都に駐屯している間は、そばにおいて警備させると良いでしょう。右兵衛督殿。と書いてあげましたとさ。それ以来、昌明は特に機嫌が良いとのことです。

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2009年5月 1日 (金)

第八巻文治四年(1188)六月大十四日戊寅

師中納言吉田經房が法皇からの仰せを書いた奉書が到着しました。春近領と云う幕府領からの年貢の滞納の名簿を書き出して、早く完納をさせてください。

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