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2009年4月29日 (水)

第八巻文治四年(1188)六月大十一日乙亥

奥州平泉の藤原泰衡から京都へ献上する馬、砂金、生糸などが、昨日大磯の駅に着きました。差し押さえましょうかと三浦介義澄が言上してきました。泰衡は義経に同意しているので、頼朝様はお怒りになっておられ、その動向を度々質問なされております。去る三月に京都朝廷が正式の使者を派遣しました。こう云う経緯があるので言上したのでしょうかね。しかし、当人は反逆をしているが大事な公への献上品は、差し押さえるわけにはいかんだろうと、仰せになられましたとさ。

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2009年4月28日 (火)

第八巻文治四年(1188)六月大九日癸酉

後白河法皇の居所六条殿の工事について、率先して修理をし尽くすように、頼朝様がおっしゃられたので、(院は)造営工事をしなくてもよいのをわざわざとしたいと思い立った所へ、このように云って来た事を(後白河法皇は)大変お喜びなられました。そういう御所を立てるのならば、前のように長講堂を建てるように、云って来られました。又、そのお堂の脇に普段の御所も作って欲しいので、考えてくれるようにと、書いた手紙が〔經房が云われて書いた〕到着したのです。

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2009年4月26日 (日)

第八巻文治四年(1188)六月大五日己巳

昨夜から雨が降っています。夕暮れ時(申刻)には、バケツをひっくり返したようでした。雷の声は一日中休まりませんでした。戌の刻(夜八時頃)に洪水が起きて、勝長寿院前の橋が流されました。そしたら、飯田次郎はお堂の宿直の番に当たり、水泳の名人なので、家来を連れて水面を二町(200m)も泳いで捕まえて留めました。そしたら、梶原平三景時がお堂の様子を見るためにお堂へ入ろうとしましたが、橋が流れてしまっているので、馬を止めていたので、飯田の行動を見ていましたので、御所へ戻ってその事を申し上げました。直ぐに飯田を御所へ呼んで、褒美に馬を与えましたとさ。

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2009年4月25日 (土)

第八巻文治四年(1188)六月大四日戊辰

あちこちの地頭に命じて欲しい事を箇条書きにして、師中納言吉田經房に託したご返事が、今日届きました。後白河法皇のお言葉の内容では、細かい事は言い切れて居ないので、権右中弁定長氏の承り書を一緒によこしました。

相模国(神奈川県)大井庄(足柄上郡大井町)の事は、延勝寺の領地です。年貢については、早く寺領管理人に納付するように。

上総国(千葉県)夷隅庄(勝浦市など)については、鳥羽離宮の金剛心院の領地です。年貢については、早く寺領管理人に納付するように。この他にも、年貢を滞納している所は、寺管理者が文書で訴えてきているところです。なので文書を添付します。

三十三間堂蓮華王院の領地、伊豆国(静岡県)狩野庄(伊豆の国市)。同じ領地、常陸国(茨城県)中郡庄(西茨城郡岩瀬町) 以上の二つの荘園の年貢の納付催促を出します。この他の年貢を滞納しているあちこちも寺領管理人が文書で訴えてきているところです。

上総国(千葉県)菅生庄(木更津市菅生)については、前任の摂政〔近衛基通〕の藤原氏の氏の長者の領地です。年貢の催促の手紙を送ります。

下野国(法皇が)お聞きになられました。(栃木県)中泉(下都賀郡壬生町中泉)中村(芳賀郡内)塩谷(塩谷郡塩谷町)、相模国(神奈川県)早河庄(小田原市早川)、以上の三箇所は、菅生と同様に藤原氏の氏の長者の領地です。年貢は、平棟範の所へ送るように命じてくれるだろうなと、先日報告している時に、

八条院の領地は、信濃国(長野県)大井庄(小諸市)、常陸国(茨城県)村田(筑西市村田)田中(土浦市田中)下村庄(常陸大宮市下村田)、同じ常陸の志田庄(稲敷郡美浦村大字信太)、下総国(埼玉県千葉県の一部)下河辺庄(春日部市など)、越後国(新潟県)大面庄(三条市) この事(年貢の納付)を早く命じて聞かせてください。

相模国山内庄(北鎌倉他)、武蔵国大田庄(大宮市他)、駿河国益頭庄(焼津市他)、同じ国大岡牧(沼津市)、同じ国富士神(浅間神社)の領地、以上の荘園や領地の年貢は、前々から書られているのに、その文書をなくしたりしている。平家の天下の時は、勝手な支配をしていた事もあるようです。又、荘園の大きさも良く分からないで、勝手に年貢を増やしたりした事もあるでしょう。そういう詳しい事は、それぞれの荘園管理者が全て知っているものと思われます。詳しく事情をお調べのうえ、きちんと命令をしてください。益頭庄の事も、事情はその辺りと同じだと思われて、一条能保に命じておられます。北條時政が地頭をしていて、他の人の付け入る隙がないと聞いているので、特に申し上げる事は無いでしょう。以上の事を、(御家人達に)ちゃんと考慮して果たすように命令をしてください。

遠江国笠原庄について、斉院のお方に年貢を納付するように、地頭に命令した事は、感心されております。しかし、毎回きちんとしないと聞いておられます。他にも所領はあっても、特に天皇等から譲られた領地は、斉院の(お祈り)ためだけの荘園なのです。良く察していただき命令をしてくれるのがよかろう。

播磨国の梶原平三景時が支配しているあちこちの荘園の事について、訴えの手紙のとおりに始末するようにさせてください。梶原平三景時は、君(後白河院)のために忠義のある者と聞いておられます。又、京都に駐屯しているときも、特に著しい忠義があったので、詳しく聞く必要はありません。きっと、家来達の勝手な乱暴狼藉なのであろう。このように申されておりますので、良く思っておられるのでしょう。五ケ庄の訴えも聞いておられます。福田庄、西下郷、大部郷も、訴えの手紙の通りに裁断され命じてください。

備前国(岡山県)宇甘郷(岡山市御津宇甘)の事について、詳しくお調べになられた事に感心されております。その内容で、命令をしました。役夫工米料(伊勢式年遷宮費用)は、国衙や荘園ごとに書き出したのは、担当機関の弁官に渡してください。

京都御所警備の事について、源頼兼が云ってる事は気の毒だ。他の人にも順番を決めて警固させた方が良いのでしょう。摂政九条兼実に言ってください。

一条院(六条院の間違い)の領地の事について、未だに報告がないので、追ってお知らせします。

これらの各条項について、この内容で、お知らせするように、後白河院の御意思です。恐れ入りますがよろしくお願いします。

 五月十三日  権右中弁定長

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2009年4月24日 (金)

第八巻文治四年(1188)六月大一日乙丑

大姫公(数え年11歳)の館の山際の前庭に田植えをしました。美女達がこれを植え、皆歌を唄いました。侍の中からも芸のあるものを呼び出して、笛や鼓で曲を奏でました。

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2009年4月23日 (木)

第八巻文治四年(1188)五月小二十日丙辰

八田右衛門尉知家の家来の庄司太郎は、京都御所の夜警に派遣されましたが、怠けていると噂が伝わったので、早く身柄を検非違使の庁へ引き渡すようにと、今日佐々木左衛門尉定綱に命令を出されました。この罰として鎌倉中の道路を整備するように、八田知家に命じられましたとさ。

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2009年4月22日 (水)

第八巻文治四年(1188)五月小十七日壬子

天野藤内遠景を始めとした鎌倉からの軍隊が、喜界島へ渡って戦をしました。その島は既に投降したと報告があったので、特に宇都宮所信房が手柄をたてましたとさ。実は宇都宮所信房の近江にある所領は、檢非違使の長官に与えられていました。今回の褒美として宇都宮所信房に返して欲しいと云って来ました。次ぎに検非違使長官の九州の荘園は、成勝寺事務長の一品坊昌寛の代官が横取りをしたので、一品坊昌寛から返納承服の手紙を提出させ、与えたけれども、まだ収まりが付かないようである。あいかわらず武力に物を言わせていると訴えが出ているそうだ。それなので、色々と検討をしました。検非違使長官は、後白河法皇のお気に入りなので、そこだけに限らず地頭を廃止してくれと、命令書が来ているので、関東の頼朝様は放って置くわけにも行かないと、一品坊昌寛の代官への命令書にご自分の花押をおすことにしました。それでも、何度も訴えが有ったからと云って、勝手に武力で制圧してはいけないと、言い伝えましたとさ。」

今日、新しく決められておっしゃられるのには、多忙の時の判決文には、頼朝様の花押は載せずに、掃部頭中原親能の判にしよう。もし、具合が悪い時は、平民部烝盛時の判にしようとのことなんだとさ。

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2009年4月21日 (火)

第八巻文治四年(1188)五月小四日己亥

平泉へ使いに行く朝廷の使者の接待を丁重にし終えましたと、武蔵と下野の御家人達が報告書を、今日筑後權守俊兼を通して、頼朝様のご覧にいれましたとさ。

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2009年4月20日 (月)

第八巻文治四年(1188)五月小一日丙申

酉の刻(午後六時頃)乾(東北)の方向で何かが響きました。もしかしたら人魂がぶつかり合っているのでしょうか。雷の様でもありません。普段は聞いた事の無い音なんだとさ。

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2009年4月18日 (土)

第八巻文治四年(1188)四月小二十五日辛卯

今朝の夜明けに千手前が亡くなりました。〔年は二十四歳です〕その性格は、とてもおとなしくて、人々が惜しみました。前に故三位中将平重衡が捕われて来た時に、命令で身の回りの世話をするうちに馴染んでしまい、彼が京都へ旅立ってからは、恋しがる気持が朝に夕に休まる間もなく、その気持が積み重なったのでしょう。もしかしたら、発病の原因はそれなんじゃないかと、人々の疑うところなんだそうな。

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2009年4月17日 (金)

第八巻文治四年(1188)四月小二十三日己丑

(頼朝様の)守り本尊を祀っているお堂で、法華經の講釈を始められました。指導する僧は阿闍梨義慶です。これを毎月二十三日の儀式と決められたんだとさ。この二十三日は、御台所政子様のおばあさんの命日だからです。

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2009年4月16日 (木)

第八巻文治四年(1188)四月小二十二日戊子

夜になって、御台所政子様に仕える官女〔千手前といいます〕が、目の前で気絶しましたが、すぐに目覚めました。普段たいした病気もしておりません。明け方になって、言いつけで自分の町中の家へ宿下がりをしましたとさ。

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2009年4月15日 (水)

第八巻文治四年(1188)四月小二十一日丁亥

鎌田新藤次(藤井俊長)が使いとして京都へ上りました。六条殿の火事の事を、頼朝様は特に驚かれて命じたからです。見舞いの上申書をお出しになられます。後白河法皇のお心具合を察して、様子を伺うようにお手紙を一条能保に遣わしましたとさ。

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2009年4月12日 (日)

第八巻文治四年(1188)四月小二十日丙戌

掃部頭中原親能の伝令が京都より参りました。去る十三日に六条殿が燃えてしまいましたとさ。宝蔵とお倉は災難を逃れましたが、後白河法皇の持仏堂の長講堂は災難にあいました。本尊は取り出したそうです。

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2009年4月11日 (土)

第八巻文治四年(1188)四月小十二日戊寅

後白河法皇からの手紙が来ました。一つは、先日の回答で、一つは新しい要望の数々です。その院の手紙に書いてあるのは、

 今月十七日付けの手紙が、同月二十六日に届きました。中身をきちんと後白河法皇に報告いたしました。東大寺再建の材木の切出し人夫の事ですが、諸国の荘園や公領は朝廷に属しているとは云っても、何かに付けてのその結果から推測してみると、皆言うことを聞かず怠けてしまい、中々はかどらないと思われます。そこで、頼朝様配下の大名に割り当てた方が、余程すばやく工事を終える事が出来るでんじゃないでしょうか。しかも、事項責任者の重源上人も考えられて、同様に云ってまいりました。そういうわけなので、今申し上げている事は、思いつきなのではありません。法皇にも話を通していますし、又、重源上人にも伝えてあり、なお、伝えるようにと後白河法皇の御意思でもあるのです。そこで、取次ぐのはこのとおりです。

   三月二十八日       太宰権師藤原經房〔命じられて書きました〕

追伸

 前法印大僧都良弘の事ですが、この話の返事も同様に手元に来ました。おっしゃられる事を法皇の耳に入れました。何かお考えになられるでしょう。先日、お手紙で申し上げました下野国(栃木県)の中村、中泉、塩谷の三箇所の事については、先代の摂政家近衛基通から提出された公文書と同じです。藤原氏の氏の長者(近衛基通)の領地とのことです。申し出の手紙の通りに、早くそう命じてください。一日付けで命じられたところの怡土庄の事は、鳥羽法皇建立の法金剛院の領地ではなくて、能盛法師が証拠があるので相続した領地です。特に年貢が入らないと訴えてきているので、気の毒に思われたので、なおも命じられたのです。他の土地と同様に、地頭を廃止して欲しいのが、法皇の本音なのでしょうから、気になされておられるのです。

私的に申し上げます

 諸国の各庄園の地頭の事ですが、お手紙の内容を内々に申し上げました。この内容は、このように仰せになられるように思われておりますが、ちょっと遠慮をされたのと、もうご承知なされておられるではないかと、様子を見ておりましたが、今言って来られた事は、いかにも結構であります。皆が喜べば、天下も元の通りに平和に戻るのではないでしょうか。とてもとてもお喜びになられておられます。そこで、お手紙を書いて渡される訳です。この内容でご命令を出されますように。

院の命令書院宣に書かれている内容は、

 諸国荘園の地頭達は、公領については、国衙の役人の言うことに従い、荘園では荘園領主の領家の命に従うように、或る時は公文書を発行し、或る時は領家の命令書を出して、何度も命じています。しかし、あちこちから訴えてきている事は、ただ単に地頭を置いただけなのに、まるで荘園を支配してしまっている。身分の高い者も低い者も、皆ただただ嘆き悲しみに明け暮れ、神社仏寺は訴訟の気持を長々と抱き続け、逃げ回る民達の嘆きは、天皇の責任である。ましてや仏神に対してだって同じようなものだ。神社の領地は、年貢がこないと今までどおりの神事が出来ない。きっと撥を当てられるのではないか。寺の領地は、年貢が来ないと盛んだった仏事も衰えていく事を悲しむのだ。その罪は、拭いきれない。良く天下が乱れている事を考えてみると、その原因は殆ど地頭の横暴ではないのか。坊さんや庶民の嘆きを散らしてやれば、必ず世間も落ち着くのでは、ないでしょうか。但し、地頭の中にも、その性分の良し悪しはあるだろうから、その勤務状態にも軽い重いもあるのだそうだ。それなので、良く状況をお調べになり、その勤めのあるなしによって、勤めの無いものは解任して、勤めのあるものを表彰すれば、好きなように悪巧みをしないで、真面目に勤めを果たす事でしょう。ちゃんと領家の言いつけを守らない奴は、犯罪人として処分してください。ついでだが、一昨年から各荘園の年貢などの領家への納める分を詳しくお調べになり、未だに滞っている場合には罰を与えてください。年を遡った領家の受け取りを出させ、一つは良くご覧戴き、一つは本所へお知らせください。御家人の不手際であっても、ご自分の不手際と同じではないでしょうか。罪の重なりは恐れ多い事ですよ。放っておけないので、このような事を(後白河法皇が)申されているのであります。中でも特に、最近異常気象などの訴えが沢山有ります。これは、人々の嘆きが充満しているせいでしょうか。悪が徳に勝る事はありません。正しい政治の徳政を行うに限ります。徳政というのは、人々の嘆きを散らしてあげる事なのです。このように心に刻んで、特に命じていただければ、世間も落ち着いて、人々も正しい心に戻る事でしょう。と書くのは院の命令はこの通りですので、書き出すことはこのとおりです。

   三月二十八日   太宰権師藤原(吉田)經房〔命じられて書きました〕

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2009年4月10日 (金)

第八巻文治四年(1188)四月小十日丙子

三年前の元暦二年(1185)五月二十日に流罪の判決を受けた平氏の人で、前法印大僧都良弘は、阿波国(徳島県)へ行かされましたが、先月の三月三十日に呼び戻されましたと中原親能が云ってよこしました。

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2009年4月 9日 (木)

第八巻文治四年(1188)四月小九日乙亥

東北の平泉へ下る天皇家の使者勅使官の雑事務の国光と、院の役人の景弘は、先月二十二日に京都を発ちました。それは、泰衡に命令して、与州義経を捕えるようにとの事です。その二人は、朝廷の命令書と後白河院からの命令書を抱えて、今日もう鎌倉に到着しました。宿泊の世話などについて、朝廷からの手紙があります。そこで、その内容を守って、怠らないように処理しなさいと、小山田三郎重成、畠山次郎重忠にご命令になられましたとさ。朝廷の命令書等を、頼朝様は非公式にご覧になりました。

 文治四年二月二十一日  朝廷からの命令

  出羽守藤原保房が申し上げます。東海道と東山道の両方の道が通っている国の国司と武勇を持っている者たちに命じて、その身柄を指名手配されている 源義経とその仲間達が出羽国へ乱入して、既に廃棄されている昔の布告を使って、嘘を言って現在の朝廷の命令だと言って反逆する事。

  命令する。例の義経は、とうとう反逆を企て、朝廷の法に背いた。しかし、神様のご威光で悪人どもは逃げる事になってしまった。そこで、近畿地方の五つの国や日本の主な街道七つに所属する全国に命じて、しっかりと捕獲するように朝廷は命令が出ております。義経は身の置き所が無くなり、奥州平泉へ逃げていきました。先には、効力を失われた朝廷の命令書符(かつての頼朝追討の宣旨)を、現在の天皇の命令だと云って、地方の人を説得して、戦いを始めようと望んでいるそうだ。その命令書符は、天皇から出ておりません。勝手な振る舞いを武力を持って押し通している事なのです。そこで今となっては破棄するように、直ぐに天皇から命が出ています。何を今更、その符の手紙を使って、現在遂行しようとしているのでしょうか。誤った訴えは責められて当然である。そればかりか噂によると、前民部少輔藤原基成と藤原秀衡法師の息子の泰衡は、その悪巧みに加担し、朝廷の命に違反して、陸奥と出羽の両国を占領して、国衙の役人や荘園の管理者を追い出しております。天の下の地も四方を取り囲んでいる環海も天皇の地ではないのか。誰が天皇家の民でないのか。どうして天皇家の命令を無視した暴虐に賛同するだろうか。それなのに反逆者を隠して、謀反をたくらんでいるのだ。よくよく、その思惑を考えてみると、殆ど人知を超えた行為である。ただし、泰衡達は、義経に同意する気持が無いのなら、一つは義経の身柄を捕まえ差出し、もう一つは荘園や公領の使者を受け入れることだ。それでもなお、朝廷の命令を聞かなければ、どうして天罰を逃れる事が出来ようか。日をおかずに政府軍を派遣して、一緒に征伐してしまうぞ。例のお前達よ!早く匿っている気持を変えなさい。そして朝廷への手柄を立てなさい。たとえ京都から遠く離れた辺鄙な土地であろうとも、朝廷の命令に背く事が無いように。

            蔵人右衛門権佐平棟範〔命を奉るによって〕

後白河院の事務所から命令します 陸奥出羽両国の国司へ

 ちゃんと宣旨の手紙の通りに、前民部少輔藤原基成と藤原秀衡の息子泰衡達が、一つは義経を匿い、一つは、国司や荘園の使者を受け入れない事

 右の通り、源義経とその同意者の連中が陸奥出羽の国へ勝手に入って、しかも破棄された昔の宣旨を使って、嘘をついて現在も効力のある宣旨だと言って、京都朝廷に反逆をすることを、出羽国司が手紙で上申してきました。それなので、その宣旨の手紙については、新たな宣旨が既に出されています。基成と泰衡達が噂のように間違えて義経の味方をしても、朝廷の命令は重いので、今までの考えを改めて、朝廷の命令書を守って義経を捕まえて差出しなさい。その義経の色々な罪を調べて、調停の文書に載せました。積もり積もった悪事のため、天の罰が当たり、策謀は成り立たず、虚しく負けてしまい、向こうの宣旨を持って奥州へ逃げていきました。全く辺境にいるので分からないとは云っても、なんで悪い奴に味方をするものではないでしょう。そればかりか、藤原秀衡の子供達が、自分達がいけないのだと、日々の生き様の中で反省をしないで、ただどさくさにまぎれて、陸奥と出羽両国の支配を勝手にして、役人を追い出して、入れないように構えるのでは、疑われても仕方ないでしょう。それが本当ならば、朝廷への謀反として同罪と判断し、政府軍に征伐させますよ。もし、朝廷の命令を聞いて、謀反人を捕まえたならば、その手柄に応じて表彰するように、命じられているのはこのとおりです。両国の長官達は承知をして間違えないように、命令します。

   文治四年二月廿六日        主典代(書記)織部正大江朝臣

  別當左大臣藤原〔經宗〕       判官代河内守藤原朝臣〔淸長〕

  右大臣藤原〔實定〕         民部少輔兼和泉守藤原朝臣〔長房〕

  大納言源朝臣〔定房〕        左近衛權少將藤原朝臣〔公國〕

  大納言兼右近衛大將藤原朝臣〔實房〕 散位藤原朝臣

  權大納言藤原朝臣〔兼雅〕      紀伊守藤原朝臣

  權大納言藤原朝臣〔忠親〕      土佐守藤原朝臣

  權大納言藤原朝臣〔實家〕      勘解由次官平朝臣〔宗隆〕

  權中納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣〔朝方〕 右衛門權佐藤原朝臣〔定經〕

  權中納言藤原朝臣〔實宗〕      右少弁藤原朝臣〔親經〕

  權中納言兼右衛門督藤原朝臣〔頼實〕 防鴨河使左衛門權佐平朝臣

  權中納言藤原朝臣〔定能〕      大工頭藤原朝臣

  權中納言源朝臣〔通親〕       左少弁藤原朝臣〔朝雅〕

  權中納言兼大宰權師藤原朝臣〔經房〕

  權中納言藤原朝臣〔兼光〕

  參議備前守藤原朝臣〔親信〕

  參議左大弁兼丹波權守平朝臣〔親宗〕

  參議左兵衛督藤原朝臣〔隆房〕

  右京大夫兼因幡守藤原朝臣〔季能〕

  宮内卿藤原朝臣〔季經〕

  内藏頭藤原朝臣〔經家〕

  右近衛權中將播磨守藤原朝臣〔實明〕

  修理大夫藤原朝臣〔定輔〕

  修理右宮城使右中弁平朝臣〔基親〕

  造東大寺長官權右中弁藤原朝臣〔定長〕

  修理權大夫藤原朝臣〔頼輔〕

  丹波守藤原朝臣〔長經〕 

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2009年4月 7日 (火)

第八巻文治四年(1188)四月小三日己巳

鶴岳八幡宮の臨時の祭です。流鏑馬は、特に上手な人達に命じました。故波多野右馬允義常の跡取りの有經は、先祖に恥ずかしくない名人なのです。そこで、今日特に秀でた者たちに選ばれて、とても素晴らしい腕前を披露しました。頼朝様は感窮まって一村〔亡き父の領地の一番良い所です〕を与えました。父義常が治承四年に殺害された時に、預かりめしうどとして彼は大庭平太景能に捕え預けられたのです。七年も経って、遂にこの良き日に出会いましたとさ。

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2009年4月 6日 (月)

第八巻文治四年(1188)四月小二日戊辰

年貢としての藍染の絹と天皇家が食べる甘海苔を、後白河院へ送られましたとさ。

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2009年4月 5日 (日)

第八巻文治四年(1188)三月大二十六日壬戌

それぞれの国ごとに四天王の像を造り祀るように、朝廷から命令が出ました。関東の分については、今日始められました。大夫属入道三善善信が担当です。

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2009年4月 4日 (土)

第八巻文治四年(1188)三月大二十一日丁巳

梶原平三景時が、御所内でのご馳走を贅沢に準備して、酒を用意し、大盤振る舞いを献上しました。頼朝様が侍所の上座にお出ましになられ、人々は群れ集りました。なかでも、先日の十五日にお供の役をした連中を呼び集めました。又、八幡宮の伊予阿闍梨義慶坊は、リクエストに答えて、稚児たちを連れてやってきて、宴会に舞を添えました。これは先日の十五日の願いの供養が無事に済んだので、お喜びになられたからだそうです。

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2009年4月 3日 (金)

第八巻文治四年(1188)三月大十九日乙卯

遠江守安田三郎義定の使いがやってまいりました。遠江国の領地内で、下働きの農民を集めて灌漑用水を掘って引いたところ、近隣の熊野権現の領地の豪族供が邪魔をしたので、乱闘になりお互いに殺し合いになってしまいました。そこで、この者達をまとめてひっ捕えて送ろうかとの事でした。しかし、それでは熊野権現で文句をつけてくると思うので、そちらで始末しておくようにと云って、帰らせましたとさ。

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2009年4月 2日 (木)

第八巻文治四年(1188)三月大十七日癸丑

東大寺の柱用の材木を周防国(山口県東部)で、山から切り出したのですが、十本がだめになってしまいました。そこで、諸国の国衙に割り当てていたのでは、力不足なのでかえって遅くなってしまうので、諸国の大きな豪族の大名主に宛てた方が、仏との縁を感じて協力するであろうと、院から手紙が行ったと思います。御家人達は仏との良い縁を思う事は、少ない者達なのでしょうか。もし、それを難儀だとお思いならば、この大事業は成し遂げられないかも知れないので、大名への割り当てを承知したと頼朝様は返事を出されました。

次ぎに荘園の事について、院から申し入れがありました。前に申し入れてきたが、未だに返事がないと云っているので、そこでもう一度内容を書き出しましたとさ。

一つ 陸奥国の白河院の領地について〔元は信頼(悪左府)の領地で、後に平重盛の領地となりました〕

   その領地は、租税の納入を免除されている所です。ですから未だに本家がどこだかわかりません。もし、後白河院が相続している領地ならば、本家分の年貢は納入いたします。あるいは、時節の代わりによって院の領地になっているのでしょうか、ご命令どおりにいたします。

一つ 私が寄付をした神社の領地について

    京都朝廷のために祈りを捧げるため寄付した所です。しかし、本所の年貢納付義務者には、早く命令を出しましょう。

一つ 下野国の中泉、中村、塩谷などの荘園について

    その荘園たちは、平家から取上げて戴いた没収地ではありませんが、関東の内ですので、普通に領地としております。本所の年貢については、前条に同じです。

一つ 常陸国の村田、田中、下村などの荘園について

    安楽寿院の領地とも云い、或いは八条院の領地とも言います。年貢はどちらのお蔵に送ったらよいのでしょうね。

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2009年4月 1日 (水)

第八巻文治四年(1188)三月大十五日辛亥

鶴岡八幡宮の道場で、盛大な仏教儀式を行いました。梶原平三景時の前々から心の中にもっていた強い願いの大般若経をあげる儀式です。頼朝様も仏様との縁を結ぶためにお出ましになられました。お供の人々も礼式にかなった態度をとりました。それなのに、お出になる寸前に、武田兵衛尉有義をお呼びになり、道中の頼朝様の太刀持ちをするように命じられたところ、とても嫌がりましたので、頼朝様の癇に障る事になりました。大分前になるが、小松内大臣平重盛の太刀持ちをした事は京都中で有名になっている。それは、源氏にとっては恥にならないのか。あの重盛は平家の一門で、私は源氏の一門の長だぞ。釣り合いはどうなんだね。と云いながら、直ぐに小山七郎朝光をお呼びになられ剣を渡されました。武田兵衛尉有義はお供をするわけにもいかず、その場から立ち去りましたとさ。行列の次第は、

先払いの儀杖兵八人

  小山兵衛尉朝政 葛西三郎淸重 河内五郎義長 里見冠者義成 千葉次郎師胤 秩父三郎重淸 下河邊庄司行平 工藤左衛門尉祐經

頼朝様のすぐ後ろに二十二人〔それぞれ狩衣〕

  參河守(蒲冠者範頼) 信濃守(加々美遠光) 越後守(安田義資) 上総介(足利義兼) 駿河守(伏見廣綱) 伊豆守(山名義範) 豊後守(毛呂季光) 關瀬修理亮(義盛) 村上判官代(基國) 安房判官代(能勢高重) 藤判官代(藤原邦道) 新田藏人(義兼) 大舎人助 千葉介(常胤) 三浦介(義澄) 畠山次郎(重忠) 足立右馬允(遠元) 八田右衛門尉(知家) 藤九郎(盛長) 比企四郎(能員) 梶原刑部丞(朝景) 同兵衛尉(景定)

殿の儀杖兵八人

  佐貫大夫廣綱 千葉大夫胤頼 新田四郎忠常 大井次郎實治 小山田三郎重成 梶原源太左衛門尉景季 三浦十郎義連 同平六義村

道に控えている武装兵三十人〔それぞれ家来三人を連れている〕

  千葉五郎(國分胤道) 加藤太(光員) 同藤次(景廉) 小栗十郎(重成) 八田太郎(知重) 澁谷次郎(高重) 梶原平次(景高) 橘次(公成)

 曽我小太郎(祐綱) 安房平太 二宮太郎(朝忠) 高田源次(隆澄) 深栖四郎 小野寺太郎(道綱) 武藤次 熊谷小次郎(直家) 中條右馬允(家長) 野五郎(小野、横山党?) 佐野太郎(基綱) 吉河次郎 狩野五郎(親光) 工藤小次郎(行光) 小野平七 河匂三郎(實政) 廣田次郎(邦房) 成勝寺太郎 山口太郎(家任) 夜須七郎(行宗) 高木大夫 大矢中七

八幡宮へ行かれて、お経の儀式がありました。指導僧は義慶房阿闍梨〔伊予といいます。八幡宮勤務の坊さんの一人です〕、お供の坊さんは三十人です。まず、舞楽〔箱根権現の稚児五人、伊豆山権現の稚児三人〕を舞い、儀式の終えた後、坊さんへの寄付の布施を披露しました。源判官代安房高重と大舎人助が運びました。指導僧には、おまけに銀作の剣一振り。頼朝様の前からお出しになりました。前少將時家が前もって回廊に控えていて、これを手に取りました。筑後權守俊兼と梶原平三景時は、前もって八幡宮の中に待っていて担当しましたとさ。

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