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2009年3月30日 (月)

第八巻文治四年(1188)三月大十四日庚戌

元検非違使の平康頼入道が嘆願書を上申しました。それは、去年阿波国麻殖保(おえのほう徳島県吉野川市鴨島町麻植塚)の管理者保司職を貰いました。そこで、徴税のため代理人を現地へ行かせましたが、地頭の小野三郎刑部丞成綱が入場を認めようとしないので、虚しく年貢をとれなかったと手紙に書いています。この保は、京都朝廷の宝蔵管理の内蔵寮に収める費用を出す土地なのです。野三刑部丞成綱が納付物を差し押さえているので、何度か院から命令書を出しています。そういうわけなので、保の全体の納付額から内蔵寮への分を差し引いて、残った内の半分を康頼の分とする旨の、命令書を出してあげましたとさ。

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2009年3月29日 (日)

第八巻文治四年(1188)三月大十日丙午

東大寺復興の重源上人から手紙が届きました。東大寺の修理復興については、色々な出資者に協力を頼まないと完成しそうにもありません。最もお力をお借りしたいお方なのです。どうか早くあちこちの国へ寄付を募る勧進するように言いつけてください。一般の人々は、仏縁との結びを考えてもいないかも知れませんが、頼朝様の権威の重さに従うことでしょう。但し、このことを後白河法皇に申し出ているのですが、未だに返事がありません。いずれにせよ、関東においては、そちらから地頭達に命じられて、寄付するようにと命令を出したと、重源上人に伝えられました。

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2009年3月28日 (土)

第八巻文治四年(1188)三月大六日壬寅

梶原平三景時が、前々からの願いによって、普段からの戒律を守っている清く自分を律している坊さんに頼んで、大般若経一巻を書き写し終えました。これは、関東の支配の安定をお祈りするためです。そこで、鶴岡八幡宮へ奉納したいと考えて、八幡宮で仏典供養の儀式を、頼朝様の意向として、指導僧や舞を奉納する稚児に命じてくださいと言上したので、幕府の公の行事としてと、梶原平三景時の私の祈りとを一緒にするために、八幡宮の神前で大般若経の奉納供養をするので、指導僧と稚児は景時の要請に従うように、命令書を景時にお与えになられましたとさ。

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2009年3月26日 (木)

第八巻文治四年(1188)三月大五日辛丑

宇都宮所信房が、先月九州から手紙をよこしました。喜界島へ渡る事について色々と述べてきております。去年その島への様子を探る事が出来たので、海を渡る海図を描いて見せるために送ってきました。この渡航はとても難しい事だと、色々の人の諌めの言葉によって、殆ど止めようかと思い始めていましたが、この絵図をご覧になった後は、無理に人々を疲れさせる程の事は無いと、尚更中止を改めて思われました。これ等の事によって、宇都宮所信房は大きな手柄を立てたので、今日恩賞を与えられました。

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2009年3月25日 (水)

第八巻文治四年(1188)三月大二日戊戌

三河守〔蒲冠者範頼〕の瘧病((おこりやみ)悪寒やふるえのおこる病気)がなおって、今日始めて幕府へ出仕してきました。專光房良暹が加持祈祷をした効力があったので、頼朝様も喜び感心なされました。そればかりか、馬を彼の坊舎へ贈られたんださと。

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2009年3月24日 (火)

第八巻文治四年(1188)二月大二十九日乙未

右武衛一条能保が云って来ました。義経の事ですが、奥州平泉の藤原泰衡に命令をするために、天皇家の使者勅使官の雑事務の国光と、院の役人の景弘を派遣します。来る三月の下旬に京から下るとのことだとさ。

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2009年3月22日 (日)

第八巻文治四年(1188)二月大二十八日甲午

鶴岡八幡宮の臨時の祭を始められました。頼朝様もお出ましになられました。小山七郎朝光が太刀持ちです。八幡宮の回廊にお座りになった後、流鏑馬があり、二騎〔海野小太郎幸氏と諏方大夫盛澄〕が射ました。着飾った馬長(あげうま)が三騎馬場を巡りました。

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2009年3月21日 (土)

第八巻文治四年(1188)二月大二十三日己丑

三河守〔蒲冠者範頼〕が病気になりました。一日おきに発病します。これは、瘧病(おこりやみ)(悪寒やふるえのおこる病気。マラリア性の熱病)らしいです。今日から、專光房良暹を呼びつけて、加持祈祷をさせたそうだ。

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2009年3月20日 (金)

第八巻文治四年(1188)二月大二十一日丁亥

天野藤内遠景の先月の手紙が、昨日九州から届きました。去年の師走十二月に、家来達を喜界島へ渡らせて、様子を伺いました。残党を追って侵略する事は、問題は無いでしょう。但し、九州の御家人達は、集るように軍勢催促の声をかけたけれども、集らないので、とても勢力がありませんので、もう一度将軍の命令書を出して戴きたいとの事でした。宇都宮所信房は、自ら渡海をしようと仕度をしました。しかし、天野藤内遠景が止めたので、宇都宮所信房は親戚の連中を行かせましたが、とても勇敢な連中ですと、手紙に書いてあります。この喜界島への渡海がかねがね京都で噂に上っています。これを聞いた摂関家の兼実から、諌めて来た事があります。三韓征伐の話は昔話であり、今日に至っては、人の手の及ぶところではない。あの島は、日本国の範囲かどうか、その故実がはっきりとしない。将軍もまた、部下の軍隊にとっては、難儀ばかりで少しも利益にはならないのではないでしょうか。良くお考えになり、お止めになった方が宜しいのではないでしょうかだとさ。そう聞いたので、暫く延期しようと天野藤内遠景に言い送りましたとさ。

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2009年3月19日 (木)

第八巻文治四年(1188)二月大十八日甲申

九州の宇佐神宮の修繕については、大宮司の公房が平家のために祈った罪があるので、その落とし前として、彼に作事を言いつけるのが良いでしょう。次ぎに東大寺の修理は、特に重源上人に協力をする事、この二つを吉田經房に手紙を出しましたとさ。

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2009年3月18日 (水)

第八巻文治四年(1188)二月大十四日庚辰

土砂降りです。鶴岡八幡宮で問答講を実施しました。その最中に大風が木を吹き飛ばしました。この風の影響で神殿の扉が揺れ動いてとても傾いてしまいました。

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2009年3月17日 (火)

第八巻文治四年(1188)二月大八日甲戌

検非違使大江公朝が、京都へ帰ります。皆、餞別を送らない人はいなかったんだってさ。

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2009年3月15日 (日)

第八巻文治四年(1188)二月大四日庚午

法務大僧正公顕の手紙が着きました。先月十一日に五つの寺(法勝寺、最勝寺、成勝寺、延勝寺、円勝寺)の長官職に任命されました。大変名誉な事と誇らしく思っているとの事です。その理由は、数年来、朝廷からご祈祷を命じられるたびに、効験が著しかったからです。以前の文治元年に、勝長寿院の開眼供養式に指導僧として鎌倉へ来たときに、悲しみ喜びなど何かにつけお知らせください。と約束があったので、云ってきたんだとさ。

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2009年3月14日 (土)

第八巻文治四年(1188)二月大二日戊辰

あちこちの地頭達が所領での出来事を、京都から或る時は強い縁故を利用して、或る時は手紙をよこし、(横取りや占領され)嘆いてくる人々が多くおります。それなのでその審議をしました。ところで、検非違使大江公朝は去年の冬から鎌倉におりますが、近いうちに京都へ帰ると言うので、その大江公朝の思惑を了解され、訴えてきている数々の内容を(後白河法皇に)お知らせするために、箇条書きを一枚の紙に書き出し、公朝に渡すようにしなさいとのことです。実はその公朝が、鎌倉へ来るついでに数々の手紙を持ってきたのであります。その文書に書かれているのは、

 宝殿 越後国奥山庄の地頭が何か不当な事をした。

 修理大夫家 尾張国島津社 板垣三郎兼信が年貢を弁済していないとのこと。

 右衛門佐御局 信濃国四宮庄 地頭が年貢と領家の取り分の双方を納付していないこと。

 大宮御局 伊勢国志礼石御厨字輪田 右馬允が不当な行為のこと。

 賀茂神社の神主 大夫判官を探しています。高雄文覚上人が賀茂神社への天皇家の文書を無視して賀茂神社の領地を横取りした事

 新中将殿 伊賀国若林御園の内の七町九反を横取りした事。佐々木太郎定綱の分五町四反。三浦平六兵衛尉義村の分一町五反。阿保別府一町。

 大江公朝 吉備津宮領西野田保の地頭職の貞光の事は、今までの例の通りに、被告人の言い訳を退けて、元の通りに間違いなく公朝の領地とすること。

以上の事柄は、きちんと判決を出すべきであろうけれども、しかしこのような訴訟は、後白河院から命じられたことなら、何もおいても判断いたしますが、私の縁故を頼って、私に伝えてきたものは決済すべきではないので、善悪については簡単に判断材料にしてはいけません。縁故で判断すれば、世間の人達はさぞかし偏った判断だと思うことでしょう。そこで、この度は判断いたしません。

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2009年3月13日 (金)

第八巻文治四年(1188)正月大二十六日壬戌

早朝に、政子様と若君(万寿)が、鶴岡八幡宮へお参りに行かれ、お神楽を奉納しました。その後、若君はお迎えに、片瀬川の辺りまで参られました。頼朝様が二所詣でからお帰りになられるからです。酉の刻(夕方六時頃)に帰り着かれました。

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2009年3月12日 (木)

第八巻文治四年(1188)正月大二十二日戊午

比企藤内朝宗の妻〔御台所政子様に使える女官で越後局と言います〕が、今朝の夜明けに男の子を安産しました。

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2009年3月10日 (火)

第八巻文治四年(1188)正月大二十日丙辰

頼朝様は、鎌倉を出発され、伊豆山権現、箱根権現、三島大社へお参りに向かわれました。大内武藏守義信、源參河守範頼、源駿河守廣綱、源藏人大夫頼兼、足利上総介義兼、新田藏人義兼、奈古藏人義行、里見冠者義成、徳河三郎義季などが、お供をしました。伊澤五郎信光、加々美次郎長淸、小山七郎朝光以下の武装兵は三百騎にも及びました。三浦介義澄の担当として、船橋を相模川に架けて用意をしたとのことです。

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2009年3月 9日 (月)

第八巻文治四年(1188)正月大十八日甲寅

二所詣での出発が近いので、甲斐、伊豆、駿河などの在国御家人達に山道を警備するように、前もって言いつけてありますが、今日再度命じられました。それは、義経の所在が未だに分からないので、特に用心されておられるからです。

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2009年3月 8日 (日)

第八巻文治四年(1188)正月大十六日壬子

頼朝様は、八幡宮へお参りをしました。御所へ戻られてから二所詣での精進潔斎の沐浴を始めました。

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2009年3月 6日 (金)

第八巻文治四年(1188)正月大八日甲午

御所で般若心経を唱える儀式です。指導僧は八幡宮の坊主義慶坊です。お供の坊主は五人。頼朝様がご出席なされました。お経が終わって、お布施を与えました。指導僧の分は、被り物(かぶりもの)二枚。馬一頭。お供の坊主には一人づつに袋に入った物を一つです。主計允藤原行政が担当をしました。

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2009年3月 5日 (木)

第八巻文治四年(1188)正月大六日壬寅

足利上総介義兼が、将軍にご馳走する大盤を振舞いました。引き出物に馬五頭を副えました。頼朝様は御所の南の公邸へお出ましになられました。足利上総介義兼は自ら銀で飾られた剣を持って差し出しました。大盤の宴会の最中に、年明け初めて弓を射る「的初め」の儀式をしました。射手は、一番が榛谷四郎重朝と和田太郎義盛。二番は愛甲三郎季隆と橘次公成でした。

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2009年3月 3日 (火)

第八巻文治四年(1188)正月大一日丁酉

夕べから雨が降っています。鶴岡八幡宮への新年のお参りは例年のとおりです。日中になって晴れてきましたが、大風です。佐野太郎基綱の巌谷不動南の住宅が焼けました。炎は飛び散ったので、人家数十屋に燃え広がりました。鶴岡に近いので、頼朝様は心配になって様子を見に八幡宮へ行かれました。人々が争うように集ってきましたとさ。

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2009年3月 2日 (月)

第七巻文治三年(1187)十二月小二十七日甲午

来春正月の二所詣でをするので、今日お供の人達を指名されました。それぞれ、身体を清めて置くように命じられました。筑後權守俊兼と平民部烝盛時が担当をしましたとさ。

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2009年3月 1日 (日)

第七巻文治三年(1187)十二月小二十四日辛卯

二品頼朝様と若君(万寿)が鶴岡八幡宮へお参りをなされました。

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