« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月28日 (土)

第七巻文治三年(1187)十二月小十八日乙酉

検非違使大江公朝が京都からやってきました。自分の訴えが有るので、関東へ下って来たとの事です。関東へ頼んで裁決してもらおうかどうか、師中納言吉田經房を通して法皇に話したところ、五日の院宣を戴いたからです。

また、今年関東から献上した馬がろくでもなかったので、来年からちゃんとしなさい。次ぎに献上の砂金が未だ届いていない分がある。運送路が通っていないとは云えないよ。現在でも未だに来ないので、とても御不審の思いだと、書かれていましたとさ。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月27日 (金)

第七巻文治三年(1187)十二月小十六日癸未

上総介足利義兼の奥方が病気になりました。とても危ないので、見舞いに行くために、御台所政子様はその屋敷へ行かれました。それは、御姉妹だからなのです。この出来事を聞いて、皆が集ってきました。晩になって多少病気が小康状態になってきましたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月26日 (木)

第七巻文治三年(1187)十二月小十日丁丑

橘次郎為茂が預かり囚人を許されました。北條時政殿の保護と提案で、富士郡の土地支配の一種「田所職」を与えられました。この人の父親遠茂は、平家の味方をして、治承四年に頼朝様に敵対しました。それなので今まで、囚人として預けられていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月25日 (水)

第七巻文治三年(1187)十二月小七日甲戌

梶原平三景時が、珍しいひよどりを献上しました。背中とお腹が白い雪のようです。美作国(兵庫県北部)で見つけたそうです。梶原平三景時は美作の守護だからです。二品頼朝様は、特にお喜びになられ、これは、良い前兆なんだろうな。と思われました。そしたら、三善善信が云うのには、天武天皇の時代の二年八月に、天皇が野上宮にお移りになった時に、九州から三本足の赤い雀を献上されました。そこでその吉兆に改元して朱雀元年としました。その翌年の三月に、備後の国(広島県東部)から白い雉が送られて来たので、これも縁起が良いと還元をして白雉元年としました。今度は白雉十五年に大和国(奈良県)から赤い雉を贈られたので、改元して朱鳥元年としました。その時代に天智天皇の子の大友皇子との戦に勝ったので、天下は静まりました。ようするに反逆者の企みが寝てしまう事になりましたので、縁起の良い例になります。そう云う訳で、縁起の良い動物は関西から献上されるのが一般的なんだとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月24日 (火)

第七巻文治三年(1187)十二月小二日己已

伝令を京都へ行かせました。片道七日で着く様決められました。その用事は、今度の十一日に後白河法皇が熊野詣をするので、その費用に砂金を献上するためです。そればかりか、院の御分国三カ国(美作、播磨、備前)の内の、武士に年貢を横取りされた箇所を指摘されてきたからです。書き出した文書を戴ければ、命令いたします。と、申し上げるためなんだとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月22日 (日)

第七巻文治三年(1187)十二月小一日戊辰

雪が降っています。雷も一声ですが鳴りました。雪景色に風流を感じられて、二品頼朝様は、幕府周辺の山道でも歩いてみようと言い出しましたが、雷の音に驚かれ、落雷の危険を察して思いとどまりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月21日 (土)

第七巻文治三年(1187)十一月大廿八日乙丑

里内裏閑院を修理した手柄に与えられる恩賞は辞退するように、前もって大江広元の処にお伝えになられておりました。大江広元は、その趣旨によって、朝廷からの申し出を敢えて辞退したので、何の措置もありませんでした。しかし、先日の十三日の引越し式の次いでに、相模、武蔵の国司職を続けて任命して欲しいとの、仰せを伝えただけでした。それなので、お喜びの後白河院のお手紙を下さいました。それが、今日夕方届きました。その内容は、

 里内裏閑院の修理という、大きな建物を建造したした大事業であったので、しかも日をおかずに頑張ったので、手柄を与えらるようにお考えになられましたが、内々に恩賞は辞退したいとのご意思を聞いたので、今まで猶予していました。との、院のお言葉はこの通り書き出したものです。

   十一月十六日     太宰権師藤原吉田經房〔命を奉じて書きました〕

  謹んで差し上げます  源二位殿

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月20日 (金)

第七巻文治三年(1187)十一月大廿五日壬戌

但馬国の豪族で山口太郎家任と云う者がおります。弓と馬の上手な勇敢な侍です。そして木曾義仲の家来の中でも、一番の人でした。義仲が滅ぼされた後は、義経の家来になっていました。義経が逃亡した時に、同様にあちこちを隠れ逃げていましたが、北條時政殿が生け捕りにして鎌倉へ送り届けてきました。そこで、義仲、義経のそれぞれに使えていた経緯を尋問したところ、話した事は「家任は元々源氏の家来です。なかでも、父家修は、六条廷尉禅室源為義の家来として忠義をつくしたので、数箇所の領地を戴きました。平家が天下を取った時は全て奪われて失ってしまいました。左馬頭木曾義仲が京都へ進行した始めの寿永二年八月、運良く領地を戻されました。そのお礼に一度は家来になりましたが、関東の源氏に敵対した訳ではありません。又、義経の家来になっていたと云うのは、誰かが嘘を言いつけたのでしょう。」と云いました。「では、六条殿(爲義)の命令書を持っているかどうか。」とお尋ねになられたので、その命令書を差し出しました。二品頼朝様は、両手を洗って、その書類を見ました。そして大和判官代邦道に朗読させました。保元三年二月付けの命令書です。中務省の文官内舎人の筆跡なんだそうな。「この命令書が何よりの証拠なので、他の事は問い質す必要は無い。元の職を認めよう。」と、頼朝様直々に仰せ聞かせましたとさ。先祖の事を重じんられる御心持は、万事このとおりなんだとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月19日 (木)

第七巻文治三年(1187)十一月大廿一日戊午

行平が、重忠を一緒に連れて、武蔵国から戻りました。重忠は、侍所所司の景時に対し、反逆の意思の無い事を弁明しました。景時が云うには、そのはかりごとが無いのなら、それを起請文に書いて提出されなさいと云いました。重忠は、畠山次郎重忠ほどの勇敢なる武士が、その武力を使って人々の財宝などを奪い取って生活の糧にしていると噂が立てば恥ずかしい事であるが、むしろ謀反を企てようとしたとの噂なら、かえって力量の褒められたようなもので、面目が立つというものだ。しかし、源家がとっている天下で、武将の主と仰いでいる以上は、全く他への余地は無いのに今、この災難に出会ったのは、運がなかったからだろう。重忠は、元々心と言葉とを違える様な者ではないので、起請文など書く必要はない。言葉を信用出来ない場合に起請文を書かせるのは、悪い奴に対する時のことでしょう。重忠に嘘が無い事は、頼朝様も承知していなさるはずだから、直ぐにその内容を伝えてくださいと云いました。景時がその旨を頼朝様に話したところ、是非の返事は無く、直ぐに畠山次郎重忠と下河邊庄司行平を目の前にお呼びになり、世間話を始めました。敢えて、その話題には触れませんでした。暫くして話を終え、奥にお入りになった後、堀藤次親家を遣わして剣を下河邊行平に与えました。それは、無事に畠山次郎重忠を連れてきたお手柄への褒美なんだとさ。

下河邊庄司行平は、先日の十七日に畠山館に向かいました。細かな事情を重忠に話したところ、重忠は大変怒って云いました。「何の恨みがあって、長く仕えて来た多くの手柄をなげうって、安易に反逆者にならなくちゃいけないのだ。重忠の心は、どうこう判断する必要なんか無い。頼朝様の腹の内でも又、同様に疑っている訳でもなかろう。単に告げ口野郎の話を信じて、お呼びがあると偽って、だまし討ちにするために、貴殿を派遣したのであろう。先祖代々の武家の家に生まれてきて、今このような事態を招くとは、己が招いた因縁を恥じるべきだ。」と云って、腰の刀を取って自殺しようとしました。行平は、その重忠の手を取って云いました。「貴殿は、真っ正直だと自分を信じている。行平もまた真心を持っており、自我を持たずに心は世間にある。どこに貴殿と違いが有るものか。もし、貴殿を殺しに来たのなら、何を恐れて嘘をついて陥れようなどとするものか。貴殿は、平良文将軍の末裔であり、行平は四代鎮守府将軍藤原秀郷の子孫である。貴殿を攻めに来たと気付かせて戦いを望めば、それも面白いかもしれない。世間と時が、たまたま友人の行平を選んで使者とした。それが、問題を起こさず連れてくるであろうという、頼朝様の思惑なのでありましょう。」と云えば、それを聞いた重忠は笑いながら、酒を勧めたので、お互いに大喜びし合いましたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月18日 (水)

第七巻文治三年(1187)十一月大十五日壬子

昨夜、梶原平三景時が内々に申し上げて云うのには、畠山次郎重忠は、重い罪を犯したわけでもないのに、囚人として預けられたのは、大きな手柄を破棄されたのと同じだといって、武蔵国菅谷館に引きこもって、反乱をしようと考えていると噂があります。しかも、丁度一族がそろって一緒に国へ帰ってきているのは、話が合いすぎています。なんでこれを放っておくのでしょうだとさ。それなので今朝、小山四郎朝政、下河邊庄司行平、小山七郎朝光、三浦介義澄、和田太郎義盛などの勇ましい連中を呼び集め、使いを行かせて詳しく質問するのが良いか、それとも、直接征伐軍を行かせるのが良いか、どちらが良いか考えて欲しいと言い聞かせました。小山朝光が云うには、畠山重忠は本性は、心が清くまっすぐなので、いっつも道理の通った事を云う人です。はかりごとを考えるような人ではありません。それなので、今度の不興を買ったのも、代官の悪い行いで責められました。そればかりか、特に神様から見られていると気にしているので、絶対に恨みを持つような人ではありません。謀反のことも、きっと間違いではないでしょうか。特別に使いを行かせて、その意思をお聞きになられるのが良いでしょうと云いましたので、他の皆も賛成しましたとさ。そこで、下河邊行平は武芸仲間なので、早く行って、意思を聞いてきなさい。もし、反逆の意思がなければ、一緒に連れてきなさいとおっしゃられました。行平も辞退する必要が無いので、明日の朝出かけましょうとの事なんだってさ。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月17日 (火)

第七巻文治三年(1187)十一月大十一日戊申

京都朝廷へ年貢として献上する貢馬三頭の出発です。佐々木仲務丞經高が頼朝様の使いとして、これらを伴って京都へ上洛します。下河邊四郎政義と千葉四郎胤通(ママ)が騎乗しました。

 一頭〔黒〕千葉介常胤の提供

 一頭〔葦毛〕小山四郎朝政の提供

 一頭〔毛斑〕宇都宮左衛門尉朝綱の提供

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月16日 (月)

第七巻文治三年(1187)十一月大十日丁未

佐々木四郎左衛門尉高綱の報告では、東大寺の大仏殿の棟木を去年探させましたが、とうとう手に入りませんでした。先だっての九月頃に、周防国(山口県東部)で、これを切り出すことが出来ました。その長さは十三丈(39m)です。これが見つかったと云う事は、何といっても重源上人の信心深さが、事業を完成へと導く為の前兆なのでしょうだとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月15日 (日)

第七巻文治三年(1187)十一月大五日壬寅

九州探題の天野藤内遠景の報告では、御家人として安堵された九州の土豪達に対し、頼朝様の命令書に従って、先だっての八月十八日に身分保障を実施しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月14日 (土)

第七巻文治三年(1187)十月廿九日丙申

常陸国の鹿島神宮は、(頼朝様の)敬いは他の神社を上回るものです。だから毎月の神様へ備える食事に宛てる年貢の事を、常陸奥郡に割り当てました。今日、その命令書を出させましたとさ。

 政務事務所が命令する  常陸国奥郡へ

 さっさと鹿島神宮へ毎月の神様へ備える食事に宛てる年貢の籾米百二十石を送ること

 多賀郡は、十二石五斗。佐都東は、十四石。佐都西は、九石八斗。久慈東は、三十六石一斗。久慈西は、十四石三斗。那珂東は、十三石九斗。那珂西は、十九石四斗。

 右の例の籾米、毎年怠けることなく届けるようにとの命令書は、このとおりである。

 文治三年十月二十九日  中原、藤原、大中臣、主計允、前因幡守中原

今日、藤原秀衡入道が、 陸奥国平泉舘にて亡くなりました。普段から重病で先行きが危ういので、前もって、伊予守義顕(源義経)を大将軍として、陸奥の国の政務を勤めるように、息子の泰衡達に遺言をしたそうです。

 鎮守府将軍 兼 陸奥守 従五位上 藤原朝臣秀衡法師

 出羽押領使(支配者)基衡の息子、嘉應二年五月廿五日 鎮守府将軍に任命され、従五位下

を与えられる

 養和元年八月廿五日 陸奥守に任命され、同日従五位上を与えられる

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年2月13日 (金)

第七巻文治三年(1187)十月廿八日乙未

里内裏閑院殿への引越しの儀式のため、楽人のための天幕二張りの幔幕と十八帖を、先日の八日に法皇のもとへ染め上げてお届けしましたと、齋院次官中原親能が京都から伝えてきました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月12日 (木)

第七巻文治三年(1187)十月廿六日癸巳

筑前国鞍手領、土佐国吾河郡、 摂津国山田庄、尾張国日置領を、左女牛若宮に寄付されました。全て長官の季厳阿闍梨が支配するように、(頼朝様が)仰せになられましたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月11日 (水)

第七巻文治三年(1187)十月廿五日壬辰

里内裏閑院殿の修理の工事が、ようやく出来上がり、来月上旬に天皇の引越しがあると聞いたので、さぞかしご褒美をくれると言い出すでしょうねと、大江広元が(頼朝様に)申し上げてきたので、ご褒美の話が出てきても、さっさと遠慮するように、平民部烝盛時に言いつけて手紙を大江広元のところへ出させました。その書状の内容は

 里内裏閑院殿の修理工事のご褒美をくれるなんぞという話が伝えられて来ても、遠慮するように。手柄をたてた褒美は、何がいいか申し出によって与えようと、何度か云われてきて云るので、今更修理工事の褒美を貰うよりも、手柄をたてた褒美の方を貰いたいとは思いますが、京の都から遠くはなれた田舎に住んでいるので、出向いていく機会が無いので、恐れ入りながらも再三辞退を申し上げているのです。とこのように申し上げなさい。次ぎに、里内裏閑院殿の修理工事をした事も、天皇家の娘が伊勢神宮の神官になるための初めてのお篭りをするため行列の初斎宮の費用を出した事も、このような出費を、奉仕による官職の買取である成功(じょうごう)として、官職を望みなさいと云われたならば、(頼朝様が)現在支配して国司を任命している相模、武蔵、駿河、伊豆、信濃、越後の六カ国の国司を続けて任務する重任を、手柄として申し出るようにしなさいと、命じられておられ事はこのとおりです。そこで命によって書き出したのはこのとおりです。

  十月二十五日      平民部烝盛時が命によって書きました

     因幡前司(大江広元)殿

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月10日 (火)

第七巻文治三年(1187)十月大十三日庚辰

伊勢神宮の神官達の訴えによって、畠山次郎重忠の領地の伊勢国の沼田御厨を取上げて、吉見次郎頼綱に与えられました。と云うのは、畠山次郎重忠は、その身体は囚人として拘束されましたが、現地の事情を知らないと云って、懸命に弁解したらしく、既に許されました。この伊勢神宮の荘園御厨については、既に重忠以外に与えると、訴人の伊勢神宮に伝えてあるので、員部大領家綱の所領や財産は、以前のとおりに元へ返すようにすること。今後も、その辺りでの武士による横領はさせないようにとの趣旨を、山城介久兼に命じられましたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 9日 (月)

第七巻文治三年(1187)十月大九日丙子

奈良の坊さんの手紙と大般若経を摺り読みした回数を書いた書面が到着しました。一生懸命にお祈りをしたとの事です。二品頼朝様は信仰されておられるので、返事をお出しになられました。その手紙の内容は、

 八月二十七日の貴方の手紙が、十月九日に手元に届きました。おっしゃられている内容は、きちんと全て承知いたしました。平家は、朝廷に反逆をした挙句、大仏殿を焼いてしまいました。そこで征伐しようと思い立ち、遂に平家の悪者達を殺し終えました。本当にこれ等の朝廷の敵は、寺にとっても敵なのであります。御仏の尊さを思うたびに、信仰心は深まりばかりです。それらの事はお分かりでしょうか。大般若経の読んだ数は謹んでお聞きしましたので、皆でもって、喜びの思いをしております。但し、毎月お経を読んだ数を伝えてくる事は、遣いの者にとって、大変な作業でもありしょう。そこで、いちいち報告を戴かなくても、熱心に拝んでいただいているので、今後はそう承知されるようにとの手紙はこのとおりです。

   文治三年十月九日      (頼朝様の)花押

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 8日 (日)

第七巻文治三年(1187)十月大八日乙亥

下河邊庄司行平と千葉介常胤が、京都から帰ってきました。後白河院からの手紙は、先立って雑用に預けて既に届けられていましたとさ。(頼朝様は)二人を目の前に呼び出されて、京都へ進駐したので京都市中が静かにおさまったと、後白河法皇がお喜びになったことは、関東武士の面目がたったと感激されました。そこで、下河邊庄司行平は九月十一日に京都市中へ入ったのですが、すぐに前々から聞いている盗人連中が集ると言われる場所の様子を見るため、家来達に夜回りをさせたところ、尊勝寺の近所で怪しい連中に出会いました。人数は八人でしたが、一人残らず取り押さえました。罪状を尋問し明らかだったので、千葉介常胤との調整を待たないで、しかも京都警察の検非違使の庁にも知らせず、以前の北條時政殿の例と同じように、彼等の首を切ってしまいました。それから、千葉介常胤が同様に十四日に京都へ着きました。それぞれ京都に駐屯して、何日か過ぎたにもかかわらず、何の事件の話も聞かずに、大過なく過ごしました。本当にこれは、関東の武士の運の強さが示されたことなのでしょう。次ぎに京都に居る武士達については、頼朝様の使いの雑用と、私達二人の使用人とを使って、日をおかずに全て呼んだので集ってきました。市中での狼藉を尋問しました。それぞれに反論する言い訳をしました。事情がそれぞれにあるので、その言い訳は五十三通も出してきました。しかも、犯罪の確たる証拠もありませんので、裁決には及びませんでしたとさ。このことについては、この言い訳の書面を師中納言吉田經房さんに提出しようか、相談がありましたが、関東武士の仕業だとは、全く聞いていないと法皇の手紙にかいてあったとのことなので、よくよく考えて朝廷へは出さずに、ここに持参してきました。と下河邊庄司行平は申しました。それは、其のほうが理が通っている。そこで又、(頼朝様は)感じ入り、御所に置いておくことにしましたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 7日 (土)

第七巻文治三年(1187)十月大七日甲戌

右武衛一条能保の伝令が到着しました。先月十九日の天皇家の娘が伊勢神宮の神官になるためにお篭りをする斎宮にお供の官女が百数十人ついて伊勢へ向かいました。それなのに勢田橋が壊れていたので、佐々木定綱が責任者となり、船で琵琶湖をお渡ししていたら、延暦寺の役人が雑用係の人達に紛れ込んで、邪魔をしたので、定綱の家来達が制止を加えたので、思わぬ乱闘になってしまい殺してしまいました。これを聞いた延暦寺の僧兵達が、群れを成して立ち上がり、朝廷へ力ずくの訴えに出て、近江国司の藤原雅長と定綱を特に辞めさせようとしました。定綱の進退については、関東の意見を聞かなくては、朝廷では安易に決断出来ないからと、延暦寺筆頭の天台座主全玄僧正に伝えましたが、僧兵は全く静まらなかったんだとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 6日 (金)

第七巻文治三年(1187)十月大六日癸酉

後白河法皇は、年篭りに熊野権現へお参りをするので、熊野山へ供える米千石、絹布類を多少ともよこすように云ってきているので、その取り決めをしました。地方産の絹の白い布は、御家人に割り当てました。米千石は、武蔵国と上総国の年貢から当てることにしましたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 5日 (木)

第七巻文治三年(1187)十月大五日壬申

河越太郎重頼は、義経の姑としての連帯責任により殺されましたが、残された家族を哀れに思ったので、武蔵国川越庄は、未亡人の尼に与えましたが、名主も百姓も命令どおりに従っていないと、聞き及びましたので、今後は、荘園の役務も雑税や勤労奉仕も、全て川越尼の指示に従うように、命令書を出されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 4日 (水)

第七巻文治三年(1187)十月大四日辛未

千葉新介胤正が、御所へ参上して言うのには、畠山次郎重忠を座敷に閉じ込めて、既に七日が経ちました。その間、重忠は、寝る事も食べる事も断ち切ってしまっています。終いには言葉も出さなくなりました。今朝、私胤正が一生懸命に食事を勧めましたが、云う事を聞きません。顔色まで変ってしまっているのは、世間の事など思い切ってしまっているのではないかと、見て思いました。早く許してあげるべきですよ。と云いました。頼朝様はとても驚かれて、直ぐに許す事にしました。そこで、胤正は自分の屋敷へ走って帰り、直ぐに重忠を連れて参りました。重忠は、里見冠者義成の上座に座り、仲間に話して聞かせました。御恩によって領地を戴く時は、何はともかく才覚のある代官を得なくてはならない。もし、その領地に

才覚ある人を得られなければ、領地を貰うべきではない。重忠は、清く生きている精神が人を越えていると自覚していたのに、真に正しくあるべき

の裏切りによって、囚人としての恥辱を受ける事になってしまったんだ。なんだとさ。その後、席を立つと、そのまま武蔵国へ下っていってしまいましたとさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 3日 (火)

第七巻文治三年(1187)十月大三日庚午

下河邊庄司行平や千葉介常胤の京都のぼりに持たせた、京都市中の盗人の群れを始めとする問題の箇条書きを後白河法皇にお伝えした内容に対し、お答えがありました。その手紙が今日鎌倉へ届いたところです。又、法皇の熊野詣の費用の事も云ってきております。日を置かず直ぐに了承した返書を出すようにとの事でしたとさ。

朝廷の手紙に書いてあるのは、

 先日の八月十九日と同じ二十七日のお手紙が、今月十五日に到着しました。その一条一条の全てを法皇にお伝え終えました。

一つ 盗人の群れとそれを心配している人々の事について

    おっしゃられるように、京都市中に詳しいものか、或いは京都近郊の者の行為であろうと院は考えておられます。元々、関東から来ている武士達の仕業だとは全く聞いていません。又、そんな事は関東にも云ってません。ただ近頃は検非違使庁の力が弱まっております。まるでコウノトリの頭の毛の様に軽くて頼りないのです。京都駐在の武士達が力をあわせて処理してくれれば、かなり制圧になるんじゃないかと思われているので、特に鎌倉へ聞いてみるように、仰せられておられます。特に犯罪者の連中は、関東武士だと威張って脅かすので、検非違使達も力不足のため手を出すのをためらっているんだそうだ。どうか推察してみてください。しかし、検非違使の庁の管轄だと云われるのは、法にかなった事であり、そのとおりでしょう。だから、殊に検非違使で処理するように、摂政兼実に言いつけられました。但し、関東武士も協力して手伝うべきではないでしょうか。

だいたい、大江公朝の話は、まだ聞いてはおりません。書状のとおりならば、とんでもないことなので、早速調べて処理させましょう。信盛や大江公朝を検非違使に任命する事は、おっしゃられる趣旨は理由のある事でしょう。しかし、白河法皇や鳥羽法皇の時代には、源氏と平氏が共に並んで治安にあたっていました。それだものだから、他の武士達は、朝廷に使われていても、ほかに昇進する道が無いので、検非違使への任官を望んだものでした。決して新しい例外では無いですよ。平知康の事ですが、鎌倉へ下る事は聞いておりません。国に留まる事も申し出ておりません。鎌倉から京都へ追い返されようと、鎌倉のご意思どおりに、こちらではどうもしません。京都朝廷に仕えた者の子孫を、頼朝様がとりなしてくれる事は、後白河院もお喜びになられております。その事は元から承知されております。

一つ 西八条の事は

   何かの折に院が言い出されたことであります。頼朝様に与えられたのです。返して欲しい気持もありますけれど、今は特に用がありませんので、どうぞ今までどおりお使いください。

一つ あちこちの地頭の所業について

   処理なさりたいように、それぞれに命令を出してください。更に申し上げるべき事がありますので、なお申し遣わします。院のご入用の事ばかりを申されている訳ではありません。殆どの多くは神社お寺からの訴訟なので、放っておくわけにも行かず、細々と伝えているのであります。人の不満や神様の祟りが積もっているので、世間も落ち着かないのです。もしあちこちの不満を解消すれば、神様も守ってくれるでしょうし、庶民も喜ぶようならが、有るべき状態に戻した良い政治となり、世間も静かに落ち着くでしょう。

義顕(義経)の事も、神様のお力によって、はっきりと耳に聞こえてくるであろうとお思いになられて、このような事は、理に基づいて処理されるように、何度も云ってきたので、一つは人の話をよく聞いて、一つは事の是非を無理に決する事はしないで、お計らい戴くために、今まで云って来たのであります。しかしながら、義顕(義経)の事は、色々と風説は有りますけれど、明らかな証拠は耳にしておりません。これがために、用心をすることは、いずれもその理由はあります。従って、(義経探索の)大事な用件があっても、院の進めに随って良く考えてお話ください。どうあっても自分の都合を押し通さず、公の平和を承知して、天下を静かにさせるために、考えて処理なされるのならば、異論はさしはさみません。今日からは、訴訟を取上げるのは、留めおきます。但しあちこちから訴えが有るので、なお、言い送る事がありますので、常に理非にあわせて処理いただきたいのです。ご承知おき戴くために、予めお伝えしておきます。

一つ 円勝寺の領地の駿河国益頭庄について

    平家から取上げて頼朝様に与えた没官領ではありません。故信業朝臣が昔治めていた所です。したがってその荘園は、以前に一条能保様に話したが遠慮したのです。早く処置して、寺管理者への年貢は、怠けることなく納付するようにさせて下さい。

一つ 熊野詣に出かけることについて

   (後白河法皇は)もう寿命も今年か来年程度しか持たないだろうと、思っておられます。ですから、今後は、大晦日から元日にかけて神社にお参りしながら篭る「年篭り」は、やりきれないと思っておられるので、今回はどうしても詣でたいと計画しておられるのです。熊野神社の坊さん達に供える米を千石、前から云っている様に調達させてください。他に手当てがありませんので、頼んでいるのです。また、絹布類なども少々助成してくれるように願います。しかし、わざわざ探すほどではありません。

一つ  阿武郡の事について

  東大寺の作事は今も続いておりますので、材木は沢山いります。そこで、ご命じになられても無理なのでしょうか。

  以上の事柄を、院からの仰せはこのとおりです。そこで書き出したのはこのとおりです。

 九月二十日  太宰権師藤原吉田經房〔命じられ書きました〕

個人的に書きます。

 天皇が父母に挨拶に行く朝覲行幸の事ですが、来る十一月上旬に行われる予定です。先日お命じになられた天幕の事ですが、出来上がったら納品予定日以前に出させてください。宜しくお取り計らいいただきたく、ご承知下さる様、お知らせいたします。また、盗人どもの扱いには、千葉介常胤、下河邊庄司行平を通して、別途手紙を出すべきなのですが、紙や筆がもったいないので、一紙に載せて御礼申し上げます。その二人が京都へ駐屯してから、京都市内は思った以上に静かになっております。とても感じ入っているとおっしゃられております。重ねて宜しくお願いします。

後白河法皇が密教の伝授式に偉い坊さんから頭に聖水をかけて貰う儀式の「伝法潅頂」は終わる事が出来ました。その分の費用としての贈り物は、もう結構で御座います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 2日 (月)

第七巻文治三年(1187)十月大二日己巳

頼朝様は、由比ガ浜へお出かけになられました。囲いの中に牛を放ち、鏃の無い蟇目で討つ、弓の訓練牛追物をしました。榛谷四郎重朝、和田左衛門尉義盛、三浦十郎義連、葛西兵衛尉淸重等が射手を勤めました。帰りがけに、岡崎四郎義實の屋敷へ寄られました。酒宴を用意しました。その間に、故佐那田余一義忠の子供達を呼んで様子を見ました。佐那田義忠は、頼朝様初戦の石橋の合戦で命を落としましたので、その手柄は誰よりも大きい事なので、特に哀れみをかけておられるのだそうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 1日 (日)

第七巻文治三年(1187)十月大一日戊辰

後白河法皇が密教の伝授式に偉い坊さんから頭に聖水をかけて貰う儀式の「伝法潅頂」の贈り物の用意を、前もって云ってはおられましたが、他の用事が忙しくて、未だに決定しておりません。壇へ上っての潅頂儀式は、先日の八月二十二日に終了いたしました。とは云っても、要しておいた贈り物を放置しておけないので、京都へ運ばせる事にしました。雑用係の六人とそれに持たせる上申書には、

献上したします。紺色の絹 百切れ。極上品の絹 百疋(二百反)。東北地方の国絹 百疋(二百反)。藍染の絹 百反。色染め下皮 百枚。右の通りお届けいたします。文治三年十月日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »