第七巻文治三年(1187)十月廿九日丙申
常陸国の鹿島神宮は、(頼朝様の)敬いは他の神社を上回るものです。だから毎月の神様へ備える食事に宛てる年貢の事を、常陸奥郡に割り当てました。今日、その命令書を出させましたとさ。
政務事務所が命令する 常陸国奥郡へ
さっさと鹿島神宮へ毎月の神様へ備える食事に宛てる年貢の籾米百二十石を送ること
多賀郡は、十二石五斗。佐都東は、十四石。佐都西は、九石八斗。久慈東は、三十六石一斗。久慈西は、十四石三斗。那珂東は、十三石九斗。那珂西は、十九石四斗。
右の例の籾米、毎年怠けることなく届けるようにとの命令書は、このとおりである。
文治三年十月二十九日 中原、藤原、大中臣、主計允、前因幡守中原
今日、藤原秀衡入道が、 陸奥国平泉舘にて亡くなりました。普段から重病で先行きが危ういので、前もって、伊予守義顕(源義経)を大将軍として、陸奥の国の政務を勤めるように、息子の泰衡達に遺言をしたそうです。
鎮守府将軍 兼 陸奥守 従五位上 藤原朝臣秀衡法師
出羽押領使(支配者)基衡の息子、嘉應二年五月廿五日 鎮守府将軍に任命され、従五位下を与えられる
養和元年八月廿五日 陸奥守に任命され、同日従五位上を与えられる
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コメント
「吾妻鏡」文治二年八月十五日条
翻訳していませんか?
平将門を滅ぼした時に藤原秀鄕が褒美として、紀伊国池田庄を給わったと聞く。
を探しています。
よろしく。お願いします。
投稿: 愛犬パパさん | 2009年2月14日 (土) 12時49分
とりあえず、吾妻鏡入門
文治二年八月十五日を見てください。
但し、池田庄は出していませんが、似たような記事を参考に書きました。
投稿: @塾長 | 2009年2月14日 (土) 19時48分
おっと、忘れた
http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma06-08.htm
投稿: @塾長 | 2009年2月14日 (土) 19時50分
有り難う御座います。
翻訳ご苦労様です。
西行は、那賀郡(奈我と記載もある)池田庄の隣が田仲庄で生家があります。西行の事は、記載があったのですが目的としている物ではなく、残念な事でした。
目的は、紀伊名所図絵(2)のP325に記載のある、吾妻鏡に書いている池田庄の金剛寺と春日神社の変遷を探しているのです。
金剛寺(現在は、廃寺です)に俵の藤太の墓があると言われているのです。
そこに明恵上人がいて春日神社と金剛寺を造った有り疑問に思っているのです。
何かありましたら、お教え下さい。
よろしくお願い申し上げます。
投稿: 愛犬パパさん | 2009年2月15日 (日) 16時04分
俵の藤太郎秀郷の池田庄、ありました。
第三巻壽永三年二月二十一日条を見てください。
http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma03-02.htm
投稿: @塾長 | 2009年2月15日 (日) 23時12分
有り難う御座います。
この訳は、使わして戴いています。
初めに、俵の藤太郎秀郷が池田庄を、貰った時が知りたいのです。
よろしく。
投稿: 愛犬パパさん | 2009年2月16日 (月) 14時30分