第七巻文治三年(1187)九月小廿七日乙丑
畠山次郎重忠は、預かり囚人(めしうど)として千葉新介胤正が預かっております。その理由は、重忠の代官の真正の悪巧みよって、伊勢神宮者の神社管理の長家があえて訴えてきたからです。代官がやったことなので、詳しい事は分からないと弁解しましたが、領地四箇所を取上げられましたとさ。
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畠山次郎重忠は、預かり囚人(めしうど)として千葉新介胤正が預かっております。その理由は、重忠の代官の真正の悪巧みよって、伊勢神宮者の神社管理の長家があえて訴えてきたからです。代官がやったことなので、詳しい事は分からないと弁解しましたが、領地四箇所を取上げられましたとさ。
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国衙の政務事務所蔵人所の人の信房〔宇都宮所と呼ばれます。〕が、使いとして九州へ下りました。それは、天野藤内遠景と一緒に喜界島を占領するように、きっちりと命令をされたからです。この島は、昔から船を出すものがおりません。それなのに、平家の天下の時代に薩摩の土豪の阿多平権守忠景が、朝廷(平家)から咎められたので、身の危険を感じその島へ逃げたので、これを退治するために、筑後守家貞を派遣しました。家貞は、軍用船を用意して何度も渡海に挑戦しましたが、どうにも風波を越える事が出来ず、仕方なく京都へ帰ったものでしたとさ。今回は、義経に味方の連中が逃げ隠れている疑いがあるのです。又、去年川辺平太通綱が、その島へ到達できたと聞いても居るので、特に実施しようとお考えになられたそうです。天野藤内遠景は、先日来九州に来ております。
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熊野権現長官の法印堪僧の使い〔永禅〕が関東へやってきました。法印の位を貰ったのに、未だにお礼も言っていなかったので、恐れ多いと思ったからです。この使いのついでに、今までに神様に拝んだ経過を書いた物を一緒に綾織りの反物三十反を献上してきました。しかし、それは頼朝様のお気に召しませんでした。おっしゃられるのには、神社やお寺へ荘園を寄付するのは、神や仏に捧げていることであり、寺社長官や神主のお世話に礼をしているのではない。このような物をその連中に恵んでやっているのは、神様への心遣いを表しているのである。それならばどうしてお礼をしようなんて思いつくのだ。私への賂になるじゃないか。そう云う訳で、とても受け取るわけにはいかないのだとおっしゃって、すぐに使いの者に返してやりましたとさ。
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摂津国の国衙の役人在庁官人と御室仁和寺の天皇家の領地との間での事を取り決められました。それを今日、北條時政殿の進上として、その内容を理解するように、三条左衛門尉に伝えさせました。その手紙の内容は、
摂津国は、平家を退治してしまった跡なので、領主がありません。殆どの国の在庁官人も、荘園の現地管理者下司も、治安維持を任された総押領使の管理下に置くように、京都朝廷から命令を出されているので、例え領主、朝廷の権力者であっても、荘園の下司職や公領の在庁官人は、全て關東の支配に従うのです。速やかに在庁官人に従って、国中の荘園公領の下司職や押領使の名簿を提出させ、京都大番役の内裏警固を始めとした関東武士の役務を分担させなさい。但し、在庁官人は、国衙の仕事で暇が無いそうです。ですから文書作成の事務以外はやらせない事。その他にも、川辺の船関係者を御家人に加えると云って、北条平六兵衛尉時定が勝手に人事通知書を出していたそうです。若し本当ならばとんでもない事なので、直ぐに止めさせます。それと、御室の領地管理人のことですが、数人の連中を御室の寺役人だと云って、御家人を任命されてしまったと訴えが有りました。本来三人の寺役人以外は、その役について邪魔をしてはいけないと返事を出しました。以上の内容を頼朝様から命じられて書いたのは、このとおりです。
文治三年九月十三日 平時政
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比企尼の家の南の庭に白菊が咲いている。よその家では、未だ咲いていないそうです。そこで、今日菊の花を祝う重陽の節句なので、頼朝様と奥様はその屋敷へ渡られました。三浦介義澄や足立右馬允遠元達の年配の大物御家人がお供をしました。酒が出され、宴会が一日中続きました。おまけに帰りにはお土産まで差し上げたそうです。
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藤原秀衡入道が、前伊予守義経をかくまって、関東に反逆しようとしていると、二品頼朝様が京都朝廷へ申し入れたので、先日、後白河法皇の居る院の庁から命令書を奥州平泉へ出しました。その使いと一緒に鎌倉幕府から雑役を一緒に行かせましたが、今日帰って参りました。藤原秀衡は、特に背くつもりは無いと弁解していましたが、雑役の報告では、準備をしているかのようだそうです。そこで、その雑役をもう一度京都朝廷へ行かせました。それは奥州の様子を申し上げさせるためです。
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千葉介常胤は、鎌倉幕府の公式の京都朝廷への交渉の使者として京都へ向かい出発しました。その目的は、京都市中での治安の悪化が、関東の御家人のしている事だと、疑惑があると朝廷で噂をしているので、調べて対処するためです。同じように下河邊庄司行平は先に出発しております。一緒に行く予定だったのですが、千葉介常胤が具合が悪かったので、延期をしていて今日になりましたとさ。
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天皇の里内裏の引越の儀式に、楽人の仮設天幕を包む幔幕と、坊さんが祈祷のお経をあげる仮設天幕の幔幕を、十月中に染め上げて後白河院へ献上するように、美濃權守中原親能の所へ申し付けられましたとさ。
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下河邊庄司行平は、鎌倉幕府の公式の京都朝廷への交渉の使者として京都へ向かい出発しました。これに、色々な京都朝廷への申し入れるためです。
一つ 強盗の群れのこと
京都に詳しいものの仕業か、もしくは京都周辺の武士であろうか。どちらにしても良くお調べいただくことですね。
一つ 江大夫判官検非違使大江公朝の下男が悪い業績について
河内国で、関東の御家人だと偽って、居座ってあくどい業績をしていると噂に聞いています。全く頼朝とは関係のないやつなので、良く調べてください。
一つ 院の直属軍人の検非違使任命について
このような官職に就くことは、最近では誰もが望んでいますが、以前はたやすく認められませんでした。よくよくそのふさわしい人柄を選んで、より分けて任命するべきです。
一つ 壱岐鼓判官平知康について
義経、行家に味方している者です。ですけど特に意見はありませんので、京都朝廷にお返しするので判断してください。
一つ 朝廷へ尽くした人達の子孫について
先祖が朝廷への手柄の有る人達の子孫が浮かばれないのは、朝廷の怠慢である。特に政務に任命されるように。
一つ 西八条の屋敷地について
平家から募集した領地として戴きましたが、朝廷でもお使いになられたいと、内々にお聞きしましたので、早くどうするか決めてください。
一つ あちこちの地頭たちについて
前もって、すでにそれぞれに良くいい気ませてあります。若し頼朝の指示に従わない奴がいましたら、教えていただければ、罰っしましょう。
以上の事柄を、朝廷の公の平穏を考えて、申し上げます。
文治三年八月二十七日
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遠江守安田義定に、伏見稲荷の修理をするように、中納言吉田經房が仲介して後白河法皇から命じられました。遠江守を再任するための福祉事業を仕向けられました。伏見稲荷も祗薗八坂神社も壊れたところは、すべて官職を与えられる勤労奉仕で修理をするようにするんだとさ。
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因幡前司大江広元の使者が、京都から到着しました。先日の十五日に六条若宮で、生き物を放つ供養の式典放生会を始めたら、見物人の身分の低い連中が乱闘を起こし、怪我をするものが出ました。
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民部大夫行景の使者が、土佐国から到着しました。弓百張や魚や鳥の干物などを持って、船一艘をよこしました。又、故土佐冠者〔希義〕の法事などの供養をしてくれている琳猷上人を大事にするように、以前言いつけられている事は、特に良く承知している旨を、返書にしたためてよこしましたとさ。その貰った弓の二十張りは、堀藤次親家に命じて幕府に保管し、八十張りは居合わせている勇敢な武士達に分け与えられました。それは、下河邊庄司行平、和田小太郎義盛、佐野太郎基綱、三浦十郎義連、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、藤澤次郎淸近 以下でした。
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京都市中での乱暴狼藉について、何度も後白河法皇が言ってきているので、一つは事情を良く調べて、一つはこれを鎮め抑えるため、千葉介常胤と下河邊庄司行平に京都へ上るように、命じられました。それぞれ了解を述べたので、今日、目の前へお呼びになり、お別れの儀式を行いました。又、馬を贈られて、色々と命令を聞かされましたとさ。吉田經房への手紙には、
京都市中での強盗の群れが出没している事や、あちこちの武士の悪い業績について、何度か仰せになってこられた事ですが、全く驚いており、又嘆かわしい事だと思っております。北條時政が京都に居た時は、関東の武士を少しですが駐屯させて置きました。この他にも、或る時は軍事用食料の兵糧米の取立てや、或る時は京都朝廷を警固するための京都大番役などで、武士が京都に居るのは多いでしょうね。その連中が、乱暴狼藉を鎮めるどころか、自分らの生活の参段に困って、そのような事をもしたのかもしれませんね。世人の口は塞ぎようもありませんね。もしそうならば、それはもっぱら御家人統制者としての頼朝の恥になります。現在、中原親能と大江広元が京都におりますけで、元々武芸の器ではありません。ただ、里内裏閑院殿の修理の手はずをさせるだけなのです。そのような武力に関する事は、全く彼等の手に負えるものではありません。それなので、千葉介常胤と下河邊庄司行平を京都へ行かせます。関東の中でも、勢力の有る武士なので、頼もしい勇士なのですよ。それぞれの得て不得手を見て考えて行かせますので、良く申し付けてください。他の色々な事は、別紙にて申し上げます。では、この内容で後白河法皇にお伝えください。頼朝が恐れ入って申し上げます。
八月十九日 頼朝
申し上げます 師中納言吉田經房殿
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鶴岡八幡宮の生き物を放つ供養の式典放生会です。二品頼朝様はお出ましになられました。參河守蒲範頼、武藏守大内義信義信、信濃守加々美遠光、遠江守安田義定、駿河守伏見廣綱、小山兵衛尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元等がお供をしました。流鏑馬が有りました。射手は五騎です。各、先ず馬場を歩き、次で各、射終わりました。皆的に当たらないと云う事はありませんでした。
其の後珍事が有りました。諏方大夫盛澄は、流鏑馬之芸を究めております。俵藤太藤原秀郷の秘伝を習って伝えているのです。ただ、以前平家に仕えて長い間京都に住んでおり、何度も城南寺の流鏑馬を始めとする弓矢の大会に出場しておりました。そんな訳で、関東の頼朝様の基へ来るのが遅かったので、頼朝様はむくれて、囚人として扱っておられました。しかし、罪人として死刑にしてしまうと流鏑馬の一流派を無くしてしまう事になるので、よくよくお考えになられて月日を送ってきました。しかし今日突然に呼び出されて、流鏑馬を射てみるように、仰せられました。諏方大夫盛澄は承知をしました。幕府厩の一番癖のある馬を命により与えたので、諏方大夫盛澄が乗ろうとすると、厩舎管理人が内緒で諏方大夫盛澄に教えて話しました。この馬は的の前に行くと必ず右へ出る癖があるとの事でした。諏方大夫盛澄は、生まれながらの馬術の名人なので、操縦しなおして、的を射ました。全て外す事はありませんでした。次ぎに小さな土器の皿を五寸(15cm)の竹串に挟んで、的台にそれぞれ三つ立てましたが、諏方大夫盛澄はこれも全て射ち落としました。今度は、残った三本の串を射てみろと、なお仰せになられました。諏方大夫盛澄はこれも承知をして、囚人になった時点で自分の将来はないものと観念しておりましたけれども、心の中に氏神様の諏訪大明神にお祈りをして、八幡宮の瑞垣のそばで拝みながら出発地点へ戻って、神様に仕える者なので、今こそ守ってくださいと拝んだ後、鏃を水平に捻り回して、この串を射たので、五寸の串の全てを射切りました。見ている人達で感心しない者はおりません。頼朝様も大喜びして、直ぐに囚人の身の上を許してあげようと仰せになられましたとさ。
今日の流鏑馬の人達は、
一番の射手は、長江太郎義景。的立は、野三刑部丞成綱。
二番の射手は、伊澤五郎信光。的立は、河匂七郎政頼。
三番の射手は、下河邊庄司行平。的立は、勅使河原三郎有直。
四番の射手は、小山千法師丸。的立は、淺羽小三郎行光。
五番の射手は、三浦平六義村。的立は、横地太郎長重。
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右武衛一条能保の手紙が届きました。現在京都の市中では、強盗の群れがあちこちに出没して、偉い人から身分の低い人まで、このためにビクビクして生きた心地がしません。特に、去年の十二月三日に太皇太后宮に入り込み、宮に仕える大夫進仲賢を始めとする男女を殺害してからと言うもの、概ね一晩おきに強盗があります。強い武士達を派遣し、特に警戒して戴きたいと、御所でも望んでおりますなんだとさ。
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鶴岡八幡宮の中を掃除をしました。今日、流鏑馬の馬場を作り、垣根を結わえました。それなので頼朝様は様子を観察なされました。八幡宮長官の若宮別当法眼円暁も立ち会いました。千葉介常胤、小山四郎朝政、畠山次郎重忠、三浦介義澄を始めとする御家人が群れ集りましたとさ。
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梶原平三景時と原宗四郎行能が、それぞれ最勝寺と尊勝等の領地の年貢を横取りしたと、寺の管理者から訴えてきたと、後白河法皇から云ってきたので、両人に問い合わせたところ、それぞれ弁解状を差し出しました。この文書を院の事務所へ送るようにとのことでした。
平景時が、謹んで弁明申し上げます
尊勝寺御領の美作国(岡山県北東部)の林野と英多保(あいだのほう)の事
右の事は、送ってこられた訴状を謹んで拝見いたしました。前におっしゃってこられた時にも、詳しく申し述べております。年貢その他の地頭の役務は、以前の例の通りに勤めております。私の代官の交代については、寺の管理者の訴えを取り上げる事はありません。その訳は、先例どおりに年貢も役務も怠けているわけではないので、訴えられる覚えはありません。但し、梶原平三景時を辞めさせて、所領を召し上げるために、このような事を云っているのでしょう。事情を何度も申し上げておりますので、これ以上詳しく弁明する内容はありません。謹んで申し上げます。
文治三年八月五日 平梶景時
惟宗行能が、謹んで弁明申し上げます
最勝寺が訴えている若狭国(福井県南部)の今重保の、後白河院の文書や鎌倉幕府の命令書の云う事を聞かないで、年貢を横取りしている事について
右の事は、九郎判官義経が鎌倉を裏切った時に、関東から武士達が京都へ派遣された日、行能は北條時政殿の配下として京都へ上りました。それなので、駐屯軍食料の兵糧米徴収の土地として、代官を置いて徴収してはいけないと鎌倉殿頼朝様から命じられたので、代官を置かずに自分の本国へ帰りました。ましてや今重保などは、私の支配する謂れがありません。又、鎌倉殿から与えられた所でもありません。どうして横取りを出来るのでしょうか。但し、行能の代官と云ってる者が、行能の知行放棄文書の去り文がなければ、行能以外の云う事は聞かないと云ってる。何度かの院からの手紙と鎌倉殿からの命令書に背いてきたので、院からの手紙によって叱責される事になりました。これが原因で私に不当だと云う不名誉な名を与えられてしまう恐れは少なくありません。そう云う訳なので、行能の代官だといっている奴を、早くとっ捕まえて、罰せられて下さい。本当に行能の仕業ではありません。それなので謹んで申し上げます。
文治三年八月五日 惟宗(花押)
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今年は鶴岡八幡宮に生き物を命を助ける放生会を初めて行うので、奉納する流鏑馬の射手と的立て役を御家人に指名する事にしました。その人数に熊谷次郎直實を上手の的立て役をするように命じられましたところ、熊谷次郎直實は怒りながら申し上げました。御家人は、皆同格の仲間である。それなのに射手は馬に乗り、的立て役の人は歩きです。それが、既に仲間同士に勝ち負けを付けたように思われます。このような事は熊谷次郎直實は命令に従うわけにはいきません。そこで、頼朝様が重ねておっしゃられるには、そのような役目は、その身の分をわきまえて、命じていることである。全く勝ち負けを分けるわけではない。なかでも、的立ての役は下等な職ではない。なんてったって、新日吉神社の祭りに法皇がお越しのときは、荘園領主の貴族本所の侍衆が流鏑馬の的を立てられました。その出来事の経緯を思えば、射手の役目を越えている訳だ。そういうわけなので早く受けなさい。でも、熊谷次郎直實はやっぱりお受けすることは出来ないと云うので、その命令違反の罪で所領を取上げてしまうと、仰せられましたとさ。
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筑前国(福岡)箱崎八幡宮の宮司親重は、褒美を与えられました。同国の那珂西郷と糟屋西郡を戴きましたとさ。平家が力を張っている時に、その為の祈祷をしていたので、多少怒っておられましたが、所詮神様に仕える神官なので、特別に配慮されるべきなのであろうと、お思いになられたからだそうです。
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今日から十五日まで、殺生禁断に専念するように、最近、関東の荘園などに命じておられます。それでも、鎌倉の中と近いところの海、浜、川、溝などでも守らせるように、なおも雑用の連中たちを廻らせました。主計允藤原行政と筑後權守俊兼が指揮を担当しました。
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善光寺復興工事について、信濃国(長野県)の御家人に命令を出した事を、この国の長官国司の代官にも伝えられましたとさ。その文書の内容は、
善光寺再建工事について、国中の荘園、国領を問わず、人足を提供して、協力をするように、命令書を出しました。国衙へも経過を知らせますので、協力をさせるようお願いします。今回、功徳を捧げない者は、どうするかお知らせを戴きたいと、思われておりますので、宜しくお願いします。
七月二十八日 勧進僧
信濃国司代官殿
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信濃国(長野県)善光寺が、前の治承三年(1179)に火事に会った後、再建する事になったので、特に協力するように、武士達に命令を出されましたとさ。その文面には、
命令する 信濃国の荘園や国領の管理者達へ
さっさと、善光寺の再建があるので、事業人足を出して、仏との縁を結び協力する事
右の寺は、霊験あらたかなお寺である。創建は古いので、堂塔伽藍が傷んでしまった。そればかりか、たまたま火事の災難に出会い、礎石の他には残っている物もありません。心ある人ならばどうしてこの事を嘆かずにはいられましょうや。早く荘園や国領にこだわらず、皆心を一つにして、復興寄付集めの勧進上人に協力をして、事業人足を積極的に提供し、その建築と言う仏への功徳を終わらせましょう。若しこの有難い功徳を捧げない者は、領地も土地管理の職も取上げてしまうのはこの文書の通りである。再度命令する。
文治三年七月二十七日
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二品頼朝様は、海辺にそぞろ歩きに出かけられました。故一條次郎忠頼の部下の甲斐中原四郎秋家を一緒に連れて行きました。歌舞音曲を職業にしている者です。由比ガ浜で、小笠懸を終えた後、岡崎四郎義實の家へ入られました。宴会に秋家は舞踊と歌を披露しましたとさ。
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右兵衛一条能保様の手紙が届きました。後白河法皇の手紙に添えてよこしたのです。内容は、前大蔵卿〔泰経〕が去年義顕〔義経〕に味方して流罪に罰っせられていますが、そろそろ許して京都へ帰したらどうかと、後白河法皇が申されるので、許す事にしました。しかし、元々は法皇と共に政治に携わっていたので、もう政界復帰させて欲しいと、法皇が追加しておっしゃっているからです。
泰経卿の事ですが、何度も二位卿頼朝様に言っております。しかし、はっきりとした返事がないので、未だにそのままにためらっております。しかしながら、最近特に復職したいと嘆いております。どうかそのように計らって、云って欲しいと、内々に申されております。それなので云われるように致しましたのはこのとおりです。
七月一日 左中弁光長
謹んで差し出します 右兵衛督一条能保殿
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新田四郎忠常の妻が、伊豆国三島大社へお参りに出かけました。それなのに、洪水にあったため、江尻の渡場の小船に乗ったとたんに、逆波が船をひっくり返してしまい、船に乗っていた男女は皆、水の中へ放り出されてしましました。しかし、それぞれ奇跡的に助かって生き残りましたが、新田四郎忠常の妻だけが沈んでしまいましたとさ。この人は、とても信心深い人なのです。子供の頃から、大きくなった今まで、毎月必ず三島大社へお参りに行っていますが、先の正月の頃に、夫が重病に陥り危篤になった時、この女性は、祈願書をその神社に捧げて言いました。妻の命を縮めてでも、新田四郎忠常を助けていただきたいと。もしかしたら、神様がその願いを受け入れて命を入れ替えたのかも知れません。その志は貞節な女の鏡だと、人々の口にのぼりましたとさ。
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雑用係の里長が使いとして京都へ上ります。それは、右武衛〔一条能保〕の娘さんが、天皇家の乳母として内裏へ上るので、費用として長絹百疋(二百反)を送られるからです。御家人達が調達して献上しましたとさ。
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山城守橘維康が、京都からやってまいりました。幕府に勤務するために、池大納言頼盛が推薦したんだそうです。馬に乗って行列を先導する役のかなえる人を、探しておられたからです。直ぐに、筑後權守俊兼の担当で、旅館を決められましたとさ。
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天皇家の娘が伊勢神宮の神官になるための初めてのお篭りをするため、この九月に行列を組んで出かけますが、このお供に官女が百数十人ついて行くので、その費用を用立てられました。じつは、御家人達に割り当てられたわけです。大夫属入道三善善信が指導担当をしましたとさ。
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