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2008年12月31日 (水)

第七巻文治三年(1187)六月小廿九日己亥

雑用の正光は、使いとして手紙を持って、伊勢国へ行きます。この用向きは、伊勢国沼田御厨は、畠山次郎重忠の領地で地頭職を持っております。その畠山次郎重忠の代官の別当真正が、郡司の員部大領家綱の召使達の家を捜索して、財産を奪ってしまったので、家綱は神社の使いの神人を京都朝廷へ行かせて、訴えました。それなので、その罪をきちんと整理するためです。又、正光が使者の権利を笠に着て、むやみに威張り散らしたりしたら、厳しく叱り付けて、詳しい事を幕府へ申し出なさいと、山城介久兼〔伊勢に国に居るんだとさ〕に伝えさせました。

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2008年12月30日 (火)

第七巻文治三年(1187)六月小廿一日辛夘

因幡前司大江広元は、使者として京都へ上り、天皇の里内裏を、修理するからと伝えました。又、師中納言吉田經房が大納言の職を望んでいるので、その事を推薦して欲しいと、内々に頼朝様に言ってきている。かれは、関東申し次ぎとして篤い交情で結ばれているので、とやかく考えずに後白河院に申し出ても良いのだが、希望している公卿は多いことでしょう。京都朝廷の様子を伺って、進言を試してみなさいと、大江広元におっしゃられました。だいたいこの人に限らず、私欲がなく正直な役人であるならば、なにかあれば手助けをしてあげるものだと、常にお心を配られています。それも、皆、朝廷や国のためになることなんだとさ。

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2008年12月29日 (月)

第七巻文治三年(1187)六月小廿日庚寅

伊勢国の平家から取上げた領地は、加藤太光員が書き出した文書に従って、地頭を任命しましたが、その地頭連中が伊勢神宮の領地で、年貢を横取りしたと、あちらこちらから訴えが有ったので、伊勢神社の要求に合わせて地頭を止めさせるように、今日決定されました。その命令書に書いてあるのは、

 命令する 伊勢国の伊勢神社の領地内にいる地頭達へ

 さっさと無茶苦茶な乱暴狼藉を止めて、内宮外宮の神主達の指示に従って管理すること

 右の通り、例の謀反人達の領地については、以前からの例に従い、治安維持の地頭職だけを任命したのだが、それぞれが勝手な行動を起こして、或る時はあちこちを勝手に支配して、或る時は神社の使いの神人に邪魔をしていると、その話を訴えて来たので、神様への奉仕が先ず第一だと、何度も云って聞かせてきました。それなので、神様に仕える伊勢神宮の神官達が、管理をしようとしているので、加藤太光員の文書に従って地頭を任命した連中が、あちこちを占領して、神社の徴税を邪魔していると、その訴えがある。お前達の行いはとんでもない不当なことだ。今から以後は、神官の命令に従って、神様への奉仕をすること。例え地頭だと云っても、何故、神官の邪魔をして神様への奉仕を怠けられるのだ。良く承知をして、そのような乱暴ごとを止めるように命じる。若し、命令を守らなければ、名前を書き出して幕府へ提出するようにとの内容は、この手紙の通りである。では、命令する。

  文治三年六月二十日

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2008年12月28日 (日)

第七巻文治三年(1187)六月小十八日戊子

京都の六条若宮でも、生き物を解き放つ儀式の放生会を始めるように、決められました。実施に際しては、京都朝廷の意向も聞いておくようにとの事だとさ。

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2008年12月26日 (金)

第七巻文治三年(1187)六月小十三日癸未

故左典厩(義朝)の乳母(めのと)がやってまいりました。直ぐに目の前へ呼ばれて、昔話に講じて、涙を浮かべておられます。この人は、平治合戦で落ちぶれて、京都から相模国早川庄へ下ってきました。そして早川庄の内の田七町(7ha)の農業経営者として、生活してきましたと申し上げました。それを聞いて、この先ずうーっとその土地を我が物として使って行きなさいと、保証して下さいましたとさ。

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2008年12月25日 (木)

第七巻文治三年(1187)六月小八日戊寅

幕府の女官の上野局を、今日付けで、武蔵国衙細工所内の染物細工の長に任命されましたとさ。

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2008年12月24日 (水)

第七巻文治三年(1187)六月小三日癸酉

一昨年、平家を全滅させた、長門国(壇ノ浦)海上で三種の神祇の刀をなくして、捜し求めましたが、未だに出てまいりません。一層、ご祈祷をするために、厳島神社の神主安芸介景弘に命令して、海の民を使って、探させるために、賃金としての米を、早く九州の地頭達に出せるように命じてくれと、後白河法皇から手紙が来ました、そこで今日、決定したので、割り当てるようにとのことだとさ。

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2008年12月23日 (火)

第七巻文治三年(1187)五月小廿六日丁夘

宇治蔵人波多野三郎義定の代官が、伊勢国にある京都朝廷の斎宮寮の田で、櫛田郷の中の分を横取りしました。直ぐに調べて明らかにするように、後白河法皇から云って来られました。直ぐに波多野三郎義定に訪ねて問い合わせてみたら、当人は鎌倉に居るのが長くなりましたので、現地の詳しい事情は分かりません。代官を呼びつけますのでと誤りました。それで、裁決に必要なら後で申し上げますよ。今、事件がおきている時なのに、武家の連中が神社の式田を横取りした事は、朝廷からの訴えを承知しながら何も罰しなければ、天皇家の命令を軽く扱っているようなものである。それなので、波多野三郎義定に新しく与えた領地を、取上げましたとさ。

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2008年12月22日 (月)

第七巻文治三年(1187)五月小廿日辛酉

主計允藤原行政は、使者として常陸国(茨城県)へ出張しました。その用事は、鹿島神社の領地の管理人貞家が、鹿島神社へ寄付している土地の年貢を横取りしたと、神職が訴えてきたので、大江広元が担当して、幕府で決定がされました。それを現地で実施させるため、出張させたのです。

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2008年12月21日 (日)

第七巻文治三年(1187)五月小十五日丙辰

大和守山田重弘が京都から到着しました。後白河上皇の病はもう、治りました。この目出たい出来事があったので、先日三日に臨時の恩赦を行われました。但し、伊予守義顕(源九郎義經)とその関係者の罪には適用しませんでした。と報告しました。

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2008年12月20日 (土)

第七巻文治三年(1187)五月小十三日甲寅

天皇の里内裏が、一昨年七月の大地震で壊れた所を、修理するように決めました。しかし、その時に建物が傾いてしまいました。同じ年の冬までに引き直させる所、天皇の居所の清涼殿(九間ふたま)の東西六間の修理役を、源參河守範頼に割り当てられましたが、やっていません。そのまま関東へ来てしまったので、頼朝様に言いつけてきた者がおります。それなので、京都朝廷から官職をもらいながら、国に宛てられた役務を怠けているのは、何と言うことだ。罰を与える事になるぞと、それとなく命じられました。源參河守範頼は恐れ入って、今度こそ僅かな力では御座いますが、懸命に尽くしますのでと謝りましたとさ。

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2008年12月19日 (金)

第七巻文治三年(1187)五月小八日己酉

頼朝様の同母弟の土佐冠者希義の死後を弔うために、彼のお墓に一軒のお堂を建ててあります。介良庄(高知市介良)恒光名津崎の農作民の在家の年貢を宛がいました。それでも、今日新たに決められたのが、供養の儀式の費用として供料米六十八石(1石150kgなので約10トン)を、毎年の役目として与える事にしました。若し足りない時には、介良庄の年貢から差し引いて、琳猷上人へ指図をして渡すように。実施の際は心を込めて丁寧にするように、源内民部太夫行景に命令を出されました。〔この時の介良庄の地頭と預所なのです。〕

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2008年12月18日 (木)

第七巻文治三年(1187)五月小五日丙午

鶴岡八幡宮の端午節句の神事です。御台所政子様がお参りに行かれましたとさ。

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2008年12月17日 (水)

第七巻文治三年(1187)四月大廿九日庚子

三月の伊勢神宮へお参りに行く公卿で天皇の代理人の勅使の途中での駅馬(宿場、馬立場)での食事の接待などを、伊勢国の地頭や御家人達の殆どが反抗して従わないので、国衙の在庁官人が、書き出している名簿を、京都朝廷が出させて鎌倉へ送ってきました。それなので今日、頼朝様はその書き出した記録を見て、規則どおりにやらない連中に命令して、今後は怠慢を叱り教えるように、厳しく決められましたとさ。

その目録に書いてあるのは、

  文治三年三月三十日

  伊勢神宮へお参りに行く公卿で天皇の代理人の勅使の途中での駅馬(宿場、馬立場)での食事の接待などを勤めない者を書き出した文書のこと

   全て合わせて(書きました)

一つ ちゃんと勤めを果たした荘園

 勤学校飯鹿庄〔松本判官代諏方大夫盛澄が支配する〕

 多々利庄〔四方田五郎弘綱が支配する〕

 萩野庄〔一方は齋院次官親能、一方は中村蔵人〕

 常楽寺庄〔山城介久兼〕

一つ 勤めをしなかった荘園

 晝生庄〔預所の齋院次官親能の代官の民部太夫範重〕

 冨田庄〔後白河院の御領で、工藤左衛門尉祐經が支配する〕

 豊田庄〔地頭は加藤太光員〕 池田別府〔前に同じ〕

 中跡庄〔前に同じ〕 栗眞庄〔因幡前司大江広元〕

 窪田庄〔前に同じ〕 長田庄〔光員〕

 遍法寺領〔廣元〕 慈悲山領〔同上〕

 曽祢庄〔刑部丞經俊〕  重安名田〔高野冠者〕

 慧雲寺領〔經俊〕 東園〔二品、親能〕

 西園村〔同〕 黒田庄〔二位、經俊〕

 丹生山公田〔四方田五郎〕 穂積庄〔預所式部太夫維度〕

 小倭田庄〔預所は廣元〕

 河口〔兵衛尉基淸〕 家城庄〔地頭常陸六郎〕

 英多庄〔經俊〕 天花寺〔二位、久氣次郎〕

 新屋庄〔二品、近衛局〕 木造寮田〔哥官寮頭〕

 永平名〔二品、宇佐美三郎〕 三ケ山〔常陸三郎〕

 松永名〔四方田五郎〕 弘淸〔佐野太郎忠家〕

 弘拔名〔一河別當〕 粥安冨名〔岡部六弥太〕

 武久名〔加藤太〕  高垣名〔親能〕

 安淸名〔澁谷五郎〕 本得末名〔長法寺五郎〕

 新得末名〔曽井入道〕 揚丸名〔尾前七郎〕

 吉久名〔莚間三郎〕 糸末名〔中村藏人〕

 福武名〔親能〕   岩成庄〔小次郎〕

 吉光名〔庄田太郎家房〕 光吉名〔經俊〕

 光吉得光渡吉淸〔同〕 堀殖永恒〔地平次〕

 高成名〔次官〕 近冨安冨〔一河別當〕

 末光安冨〔一河五郎〕 加納〔光員〕

 永冨名〔廣元〕 得永名〔同〕

 永藤名〔伊豆目代頼澄〕 光藤名〔同〕

 久藤名〔泉乃判官代〕  加垣湊〔光員〕

 新光吉名〔同〕     安冨名〔一品房〕

 山永垣名〔伊豫守〕   堀殖加納〔同〕

 位田〔光員〕      辰吉〔刑部丞〕

 近津連名〔八田太郎〕  豊冨安冨〔次官〕

 曽祢庄返田〔刑部丞〕  吉行名〔常陸太郎〕

 福延別名〔因幡前司〕  石丸名〔同上〕

 末松名〔澁谷四郎〕   松高名〔常陸太郎〕

 有光名〔白山別當〕

   此の外、一志の馬屋での食事三百人分のもてなしを命じました。

 天皇家の御庄内のうち〔葉若村 井後村 平野村 上野村 久吉村 河曲村 安樂村 「已上」〕

  已上の全てが果たされていません。

           介大鹿俊光

           散位大鹿兼重

           惣大判官代散位大鹿國忠

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2008年12月16日 (火)

第七巻文治三年(1187)四月大廿三日甲午

周防国(山口県東部)では、去年の四月五日に、東大寺再建のために寄付された材木を、その国で切り出しをしたのですが、御家人達が武力に物を言わせて、邪魔をしたことので、勧進聖人重源は、在庁官人の訴えの文書を使って、京都朝廷へ訴え出たので、その上申書を朝廷から関東へよこし、詳しく調べて命令するように云って来ました。

重源が、申し上げます。東大寺造営の材木のことですが、急いで命令して処理していてくれていると承知をして、周防へ下ってきたのですが、未だに武士達の邪魔が止まっておりません。

 筑前冠者家重 内藤九郎盛經 三奈木三郎守直 久米六郎國眞 江所高信(国衙武者所の大江高信)

この人達が、それぞれ鎌倉から地頭に任命されてきておりますが、あちこちに蓄えておいた米百八十六石(約27.9t)を理由もなく、腕づくで取って行ってしまいました。材木運びの人足の賃金に宛てることにして、関西から運んでいったのに、このような邪魔が入って、全ての予定が狂ってしまいました。国司として私が止めても、相手にしません。このような事が静まりませんと、この大事業は成功しそうもありません。そればかりか、在地の人々を集めて、自分の城普請をさせ、私が材木の切り出しを始めたのに、材木を引く労働者を自分の用事に連れて行き、材木を引かせる事を承知しません。他にも又、山野で狩をして、材木引きの邪魔をして、全く院宣に遠慮をせず無視しております。このようなことですので、万事が旨くいかないことが心配なので、急いで申し上げる次第です。詳しくは、在庁官人の上申書に掻き揚げてありますので、重源が恐縮ながら申し上げる次第です。

  文治三年三月一日         判あり(重源の花押)

周防国の在庁官人が申し上げる二か条

 一 得善、末武の地頭として、筑前太郎家重は都濃郡一帯を覇権して、国衙の倉庫を腕ずくで開いて、収納されている米を強奪したり、狩猟を主な行為として、庶民を力ずくで集めて自分の城の堀を掘らせて、勝手気ままに農業耕作を邪魔すること

 右のこの理由を考えてみると、周防の国は元々狭い上に、荘園が多くあるので、国衙の力の及ぶ範囲が少ないのです。しかもその上に、源平合戦の主戦場になったために、田畑は荒廃して、農民は居ないのと同じです。在庁官人を含め、飢えて亡くなった人は、数え切れません。そういうことなので、東大寺再建の費用に宛てる様に、国司の権利を戴きました後は、ここに留まった在庁官人も貧しい生活に窮している人々も忠義の心をめぐらし、随分と頑張って、きわめて珍しい大きな材木を運び出そうとしましたが、国司の権限の及ばない別な納税地だと云ったり、新しく立てた荘園だからこれも別な納税地だと言って、話をドサクサにまぎれて、敢えて催促している国衙の役務に従う権限の及ぶ土地がありません。へたをすると腕づくの喧嘩や納税問題として訴訟を呼ぶ基になってしまいます。全然、東大寺造営という仏に対し縁を結ぼうなどと云う思いはないので、国司権限に従う者もありません。特に、得善、末武と云う所は、特別な(権力者の)圧力がかかっているとも聞いていません。又、国衙の介入を免じて別な納税地だと言う書付もありません。単に地頭に任命すると云う、鎌倉殿頼朝様の命令書を戴いているに過ぎませんそうです。それなのに、何でも武力に物言わせて、この二つの国衙領の保を横取りしたばかりか、柱引きの人夫の賃金や食料として用意して置いた米四十余石(6トン)を、国衙の倉庫を打ち開いて盗んでいったばかりか、営農の最中の農民を無理やり集めて、鹿狩りや鷹狩をするのを仕事のようにしています。その上、法皇の命令の院宣をさえも気にしないで、このように公の官庁の物を差し押さえて、自分達の食料にしてしまうような濫りに悪い事をのさばってやっております。何と云ったら良いのかとんでもないことに、この国に住んでいる在庁官人や納税帳簿付けの事務員、侍などを地頭の家中に屈服させて、国衙に勤めさせません。こんな具合で、東大寺造営の勤めなんか、てんで忘れている始末です。全く持って、これほどの天魔の災いは、これ以上の事がありましょうや。それなので、周防の国中の非課税の領地や国衙が干渉できない領地の地頭や、現地管理者がちが、この噂を聞いてまねをして、悪いほうへ傾き、本当の正しい行いする勇気のある者がおりませんので、折角大物の材木を切り倒しても、川まで引き出す者が少なくて、未だに引き出せない材木が沢山あります。何処を宛てにして、史上希な東大寺造営に励んだらよいものでしょうか、お考えいただければ、なんで幕府の指示命令がないのでしょうかね。希望をお願いします。一つは地頭のほかの連中への見せしめのためにも、その地頭の身を捕まえて戒めて下さい。一つは新しい別な使者を周防へ下って来らせて、わがまま勝手な行動を止めていただきたいのです。

一つ 国衙の侍所の人である高信は、久賀、日前、由良の地頭だと称して、国衙の倉庫を腕ずくで開いて、治められている米を強奪し、保の役人のように、万雑公事を押し付け、国衙の勤めに従わない事

      証拠となる文書を添えてお出しします

 右の、その土地等は、特別な(権力者の)圧力がかかっているとも聞いていません。一般の権力が限られている国衙の領地の保は、勿論公領であります。しかしながら源平合戦の主戦場になった以後は、当初の領主も地頭も、ドサクサで分からなくなってしまったので、戦が落ち着いてからは、新たに地頭が任命されて所です。それなのにそのどさくさにまぎれて、好きなように地頭の権力を傘に来て、東大寺造営の邪魔をしております。何と云ったら良いのかとんでもないことに、僅かに国衙の倉庫に保管していた米は、特に中央への納付を決められている年貢米ではありませんし、私が用途を振り分ける米でもありません。この国や周辺の国へ寄付を募り歩く勧進をしてきて、たまたまこの狭い周防国からの年貢の米なのです。それなのに、やっとこさ分けて置いた米を、或いは国中の年貢徴収量の多い少ないと文句を付けて、或いはずる賢い考えで、法を無視して横取りしてしまったのです。

そして、国衙倉庫へ納入する米のやり方は、納税担当の納所からの使者の帳簿付け役人が検査して倉庫に納め、倉庫に封をするのが、諸国一律のやりかたです。それなのに、勝手気ままに任せて、全て国衙へは知らせずに横取りをしてるのは、希に見るとんでもないことです。この一つ取ってみても万を推察していただきたいのです。詳しい事は、年貢を納付すべき本所に聞いていただき、ほかの連中への見せしめのためにも、一つは出鱈目の行為を止めさせていただき、一つは、取られた国衙倉庫の米を調べて戻して戴きたいのです。

 以上の二か条を申し上げる事は、この通りなので言上します。

   文治三年二月日      散位賀陽宿弥弘方

                散位土師宿弥安利

                散位土師宿弥弘安

                散位菅乃朝臣成房

                散位土師宿弥助遠

                散位土師宿弥國方

                散位賀陽宿弥重俊

                散位土師宿弥弘正

                散位大原宿弥淸廉

                散位中原朝臣〔京に在り〕

                散位日置宿弥高元

                權介大江朝臣

                權介多々良宿弥〔京に在り〕

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2008年12月15日 (月)

第七巻文治三年(1187)四月大十九日庚寅

前大倉卿の高階泰経の罪を許して、朝廷へ出仕できるように宣旨を出したいのだがと、先月六日の後白河法皇の手紙がきました。しかし、何度もこの打診があったので、頼朝様のお怒りが多少おさまりかけてきたので、京都へ戻るのを許しても良いかなあと非公式には云っていましたけれど、まだちょっと考えるところがあるので、おそばに仕えさせる事は、当分言い出さないで下さいと、おっしゃられました。

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2008年12月14日 (日)

第七巻文治三年(1187)四月大十八日己丑

御家人平九郎滝口清綱は、自分の領地があるので美濃国(岐阜県南部)に住んでおりますが、武力に物を言わせて、美濃国を治める国衙の命令を聞かないで、年貢を滞納して、国衙の下っ端の役人召使に大口を叩いたと、国衙の役人在庁官人から訴えがあったので、早く調べて対処するように、後白河法皇から院宣が来ました。それなので、頼朝様の命令書を作り、院宣への返事を一緒に、師卿吉田經房に届けさせました。平五盛時が担当をしました。

 まったくもって良くない者であります。減らず口を叩きやがって、全くとんでもない奇怪の罪に該当する奴です。鎌倉幕府の家人でありながら、なにゆえ京都朝廷に対し、悪いところを見せ付けるような事をするのでしょう。

 美濃国内の清綱が地頭をしている所で、年貢の未納を平気でしていながら、国衙からの指示を無視していると、在庁官人から訴えがあったので、繰り返し後白河院からいって来ているのである。中でも、減らず口を叩いて、暴言を吐いたと聞いている。つくづくとんでもない事である。これより先は、国衙の指示に従うようにしなさい。若し、この上滞納したならば、さっさと美濃国から出て行きなさい。頼朝様からの命令はこの通りである。よって書き出した内容はこのとおりだ。

   四月十八日         盛時〔命令をこのとおり奉ず〕

  平九郎滝口殿

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2008年12月12日 (金)

第七巻文治三年(1187)四月大十七日戊子

四月二日に始めた百人で唱える大般若経の儀式が、一昨日のふたなぬか十四日を過ぎて終了しました。そこで、読んだお経の数を書き上げた巻数を、後白河法皇の仙洞御所へ送ることにしました。今日、大和守山田重弘が持って京都へ出発しましたとさ。

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2008年12月11日 (木)

第七巻文治三年(1187)四月大十四日乙酉

雨が降り雷が鳴りました。政務事務所政所に驚くほどの雷が落ちました。しかも、筆頭の前因幡守大江広元の別当馬屋の屋根の上に落ちました。馬が三頭も倒れ死んでしまいました。屋根の上と柱が一番焼けてしまいました。それなのに、一巻の般若心経を棟の上に結び付けておきましたところ、多少は焦げましたが、文字もはっきりと読み取れる状態でした。前因幡守大江広元は大喜びの余り、そのお経を御所に持って来て、末法の世と云えども仏法の力はまだまだ廃れては居ないと云いながら、嬉し涙を流していましたとさ。

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2008年12月10日 (水)

第七巻文治三年(1187)四月大四日乙亥

予州義経の居所は未だにつかめません。こうなっては、人の手には負えないので、全て神様や仏様に祈るしかないだろうと、皆が相談して言うので、鶴岡八幡宮を始めとする神社仏閣で、数日間のご祈祷を行わせました。そうしたら、八幡宮筆頭の法眼円暁が見た夢の中で神様が言うには、上野国(群馬県)の金剛寺で義経を見つけられるだろうとさ。そう事情を言うので、その寺の住職達の坊主が、それぞれ熱心に心を込めて拝ませる旨を、命令するようにと藤九郎盛長におっしゃられましたとさ。

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2008年12月 9日 (火)

第七巻文治三年(1187)四月大二日癸酉

百人で略読みする轉讀を始めさせました。鶴岡八幡宮、勝長寿院、箱根権現、伊豆山権現それに相模国中の寺の坊さん達が、沢山の人でお勤めをしました。それは、太上天皇(後白河法皇)が病気で、体の具合が悪く不安だからです。そこで、使いの京都への上洛と鎌倉への下向が、もう数回にもなりました。それでも、回復なされたとの知らせがこないので、このような仕儀と相成ったわけだそうな。

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2008年12月 8日 (月)

第七巻文治三年(1187)四月大一日壬申

京都の近辺に屋敷を建てたいと、普段から検討なされていました。しかし、現在は調度良いところがないので、朝廷に取り上げられて空いている土地を貰える様に、師中納言吉田経房に言い送りました。山科沢の後白河法皇の別荘地で調度良いのがあるとのことなので、欲しいと云い送りましたとさ。

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2008年12月 7日 (日)

第七巻文治三年(1187)三月小廿五日丁夘

立派な馬や砂金、絹織物などを検非違使大江公朝への返事に添えて送ってやりましたとさ。

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2008年12月 6日 (土)

第七巻文治三年(1187)三月小廿一日癸亥

佐竹蔵人義季は、治承四年以来の頼朝様の源氏一門として待遇されてきましたが、精神が多少不安定で、何度かおかしな行動をするので、今朝、お叱りを受けました。比企藤内朝宗が担当して駿河の国へ蟄居させることにしました。岡辺権守泰綱に預かり囚人(あずかりめしうど)として預けることにしました。

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2008年12月 5日 (金)

第七巻文治三年(1187)三月小十九日辛酉

聖徳太子の神聖な伝説の地なので大事に崇めているので、法隆寺の領地の地頭金子十郎家忠を止めるように命令したのですが、未だに静かに落ち着かないと、寺の運営者が後白河法皇の手紙院宣を持って、訴えてきたので、雑用の里久を現地へ派遣しました。斑鳩庄の年貢の横取りを止めるように命令を出されました。その庄は、聖徳太子が特に大事にしていらした遺跡であると院宣に書いてあるので、頼朝様はそれを聞いてとても驚かれたからです。

 命令する 播磨国 斑鳩庄に住む者たちへ

 金子十郎家忠の命令を聞かず、領家の言うことに従って地頭を止めさせる事

 右のその荘園は、金子十郎家忠の地頭を止めさせるように、去年後白河法皇から院宣を戴き、命令しております。それなのに金子十郎家忠は代官を派遣して、年貢を横取りさせているので、もう一度命令するのです。とんでもない行動です。これより後は、さっさと領家の邪魔を止めるように。若し、それでも云う事を聞かなければ、その現地管理人をひっとらえて罰するために、鎌倉幕府の使いの里久を派遣したところです。さっさと地頭代官の年貢の横取りを止めるように命令するのは、この書状の通りです。

  文治三年三月十九日

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2008年12月 4日 (木)

第七巻文治三年(1187)三月小十八日庚申

右武衛一条能保様の使いがやってきました。その用は、比叡山延暦寺の僧兵の民部卿禅師は、義経と仲間になっているので、とっ捕まえて罰するように、頼朝様がおっしゃっているので、延暦寺長官の僧正〔全玄〕に命じられましたけど逃げてしまいましたとさ。それなので益々お怒りになってると京都朝廷へ申し入れたので、権右中弁定長様が後白河法皇の命を受けて院宣を奉じ、比叡山延暦寺に命令を出したことなのです。直ぐに比叡山長官が返書を添えて届けられましたとさ。

 民部卿禅師を、更に捜索して身柄を差し出すようにとの仰せを謹んでお受けいたしました。但し、その民部卿禅師についての詳しい事柄は去年申し上げておりますが、又、この言いつけを戴いたので、再度命令を出します。宜しくお願いします。

    三月八日               僧正全玄

 例の悪い僧兵達の事は、関東から承ったとおりに、その処置をするように、比叡山も承知いたしました。けっしておろそかにはしておりませんでした。その事の詳しい事は、この手紙を持った使いの澄雲法印がお話いたします。宜しく。

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2008年12月 3日 (水)

第七巻文治三年(1187)三月小十五日丁巳

検非違使大江公朝が使者をよこして、後白河法皇が賀茂社と岩清水社へお参りに行かれるので、橋をかける役を受けさせられました。特に行列を美々しく飾り立てたいのです。そこで莫大な費用がかかるのでしょうから、ご助成をお願いしたいんだとさ。

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2008年12月 2日 (火)

第七巻文治三年(1187)三月小十日壬子

土佐の国(高知県)の地侍の夜須七郎行宗は、梶原平三景時と押し問答をしました。頼朝様が直接これに裁断を決します。行宗は、壇ノ浦の合戦の時、平家の侍で周防の国(山口県東部)の地侍岩国二郎兼秀と弟の岩国三郎兼末を捕虜にして連れてきました。その手柄を表彰されるように、上申して来ましたが、梶原平三景時がさえぎって云いました。あの戦の時に、夜須なんて名前を名乗るものは居なかった。例の岩国兼秀達は、平氏が負けたので、仕方なく降伏してきた連中だ。それを時間がたって分からなくなってしまったのを良い事に、夜須行宗はずるがしこく考えて、今申し出ているのだと訴えました。しかし、夜須行宗は、あの戦の時は春日兵衛尉と同じ船に乗っていましたと弁解をするので、春日を呼び出して、問いただしたところ、勿論一緒だったと答えました。完全にはっきりとした証人になりました。そこで恩賞を与えることにすると、夜須七郎行宗に言い聞かせました。梶原平三景時は、いい加減な訴えをした罰として鎌倉中の道路を整備の道普請をするように命じられました。筑後權守俊兼が検査担当をすることになりました。

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2008年12月 1日 (月)

第七巻文治三年(1187)三月小小八日庚戌

南都奈良興福寺の周防得業聖弘が、頼朝様の呼出し命令に従って鎌倉へやってまいりました。この人は、義経の仏教の師匠と檀家の関係だからです。来てからは小山七郎朝光が預かっておりました。今日、頼朝様がお会いになられました。頼朝様は人を介さず直接お話になられました。頼朝様はおっしゃられました。義経は国を乱れさせる反乱分子である。しかし、雲隠れしてから諸国の山河に行方を捜し、処刑するように京都朝廷から、何度か命令が出されてきた。それなので、天下の高貴な者から卑しい者まで皆、義経に反発しているのに、貴僧一人が義経のために祈るのでしょうか。しかも、義経の味方をして、何か悪巧みを企んでいるとの噂がありますよ。その腹積もりは如何なものでしょうか。と申されると。聖弘は答えました。義経は貴方の代官として、平家を征伐のときに、合戦が無事に終わりますようにと、祈りを傾けてくださいと、丁寧に約束をしたので、それ以来ずうっと心を込めて祈っていたのです。これが国を思う志では無いとおっしゃられるのですか。そして、義経は関東から嫌われ追われてしまったと逃げ隠れた時に、師匠と檀家の関係を慕って奈良へ来た時に、良く考えて、一時の危険から逃げた上で、頼朝様に謝って行く様に諌めて、下役の坊主に案内させて、伊賀の国へ送って行かせました。その後は音信普通で何の連絡もありません。ようするにお祈りは謀反を祈ってはありません。むしろ私の諌めが謀反の心を宥めましたよ。それなのに何故、私が謀反に加担している事になるのですか。しかし、良く考えてみると関東が無事に勝てたのも、ひたすら義経の戦の手柄によるんではないでしょうかね。それなのに、誰かの告げ口を本気にして、今までの手柄を簡単に忘れて、その手柄の褒美として与えた領地を取上げてしまったら、逆らおうとするのは、耐え切れなかったらじゃないでしょうかね。早く、そのお怒りを捨てて、仲直りするように義経を呼び戻して、兄弟仲良くしようとお思いになられるのが、国を治める一番の方法じゃないんですか。今まで云った事は義経の味方をしているのではなく、世間を静かに治めるためなのです。と云いました。頼朝様は、得業の真っ直ぐな気持に感動なされて、それじゃ早速、勝長寿院の坊さんになって、関東の平和安泰を祈ってもらおうと、言い聞かせましたとさ。

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