第六巻文治二年(1186)十二月小六日己夘
御台所政子様が、鶴岡八幡宮へお参りをなされました。お神楽を奉納なされ、巫女や雅楽師の職掌に褒美を与えられましたとさ。
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御台所政子様が、鶴岡八幡宮へお参りをなされました。お神楽を奉納なされ、巫女や雅楽師の職掌に褒美を与えられましたとさ。
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千葉介常胤が、領地の下総国(千葉県千葉市)から鎌倉へ参りました。今日、お酒を勧めました。頼朝様は、西の武士の詰め所(侍所)へお出になられました。千葉介常胤、小山四郎朝政、大夫属入道三善善信、岡崎四郎義實、足立右馬允遠元、藤九郎盛長達の年をとり、経験を積んだ大物達がご相伴に預かりました。盃を何度か重ねて、すっかり酔いがまわりました。千葉介常胤が座から立ち上がって舞踊りました。大夫属入道三善善信は流行り歌の郢曲を歌い、催馬楽と呼ばれる民謡を雅楽風に編曲したものまで歌いましたとさ。
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義行〔義顕と変えました〕を見つけるき事。先日の十八日に後白河院の建物(殿上)で公卿達の会議がありました。前と同じように、義経捕縛の太政官布告を関西地方と北陸地方にも出すべきであろう。京都の街中では、検非違使の庁に命令して、保の街区ごとに分担させて探させること。それに、神社にお祈りの使者を送って、仁王会の加持祈祷のお祈りを始めさせることに、衆議一致したと、右武衛一条能保様が云ってよこしましたとさ。
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先月の八日の太政官から交付された文書と同月九日の院からの文書が先日届きました。今日、その返事を出します。大夫属入道三善善信と筑後權守俊兼が頼朝様がおっしゃる事を判断して書き加えました。その内容は、平家を滅ぼし追い出した領地の地頭が、特に謀反人の平家の跡地でもないのに、年貢納付義務を押し付け、国衙の役人を困らせていると、国衙の支配者の国司や、その土地の領主の領家が京都朝廷へ訴えてきたからです。元平家の領地だとはっきりとしている所以外は、地頭を止めるようにとのことだとさ。
太政官から発出する命令 諸国へ
ちゃんと早く国衙の領地や荘園の地頭の無法な横取りをやめされること
これについて、内大臣〔実定〕が命令する。後白河法皇の仰せに云うには 平家を追い出した事によって、その跡地に任命された地頭が、戦争の褒美だと云って、特に謀反人の平家の跡地でもないのに、法外な年貢納付義務を押し付けるために、土地の検査を無理に実行して、地主の本来の権利を邪魔して、国衙の役人の在庁官人や郡の長官や役所の人達を腕ずくで面倒をかけていると、国衙の支配者の国司や、その土地の領主の領家が京都朝廷へ訴えてきたからです。そう云う訳で、元平家の領地だとはっきりとしている所以外は、地頭を止めるようにとの命令書はこのとおりである。後白河法皇の命令によってこれを発布する。この命令書を受け取ったならば実行しなさい。
文治二年十月八日 正六位上行左少史大江朝臣
修理左宮城使從四位上左中弁兼中宮權大進藤原朝臣
諸國の荘園が国衙の領地で、元平家の領地だとはっきりとしていない所で、法外な年貢納付義務を押し付けるために、土地の検査を無理に実行して、その土地全体を扱っている惣領の本来の職務の年貢徴収権を奪って、国衙の役人の在庁官人や郡の長官や役所の人達を腕ずくで面倒をかけていると、国衙の支配者の国司や、その土地の領主の領家が京都朝廷へ訴えてきたから、太政官布告をだしたのです。そう云う訳で、武士達に命令して、元平家の領地だとはっきりとしている所以外は、地頭の口出しを止めるようにとの後白河法皇からの命令書はこのとおりである。仰せのより書き出したのはこのとおりである。
文治二年十月九日 左少弁定長
差し出します 源二位殿
頼朝様のご返事に書いてあるのは、
恭しくかしこまって受け取りました後白河法皇の命令書について 右の仰せ戴いた諸国の荘園や公領において、平家を追い出した事によって、その跡地に任命された地頭が、戦争の褒美だと云って、法外な年貢納付義務を押し付けるために、、土地の検査を無理に実行して、その土地全体を扱っている惣領の本来の職務の年貢徴収権を奪ってしまったと云う、太政官布告も後白河院からの命令書も読ませていただきました。元平家の領地だとはっきりとしている所以外は、地頭の口出しを止めるようにと、それぞれに命令を出しましょう。ですから、早く国司や領家に命じられて、禁じさせてください。それでも、云う事を聞かずに無理に実行する連中の事は、名前を書き出していただければ、処罰を与えましょう。この内容で、後白河法皇に申し上げてくれるように頼みます。後白河院からの命令書を受けた返事はこの通りです。頼朝は首をたれて恐れ入っております。
文治二年十一月廿四日 源頼朝〔ご返事〕
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先月十六日に木工頭藤原範季が義経の味方をしていたと院へ訴える使いで上洛した雑色鶴次郎、それと十月三日に貢馬を届けに行った使いの生沢、馬屋番の宗重が京都から帰ってきました。北条平六兵衛尉時定の手紙を持ってきました。貢馬は先日の十一月二日に朝廷のご覧をいただき終えました。同じ十一月二日に木工頭藤原範季が現職を解任されましたとさ。
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若公(万寿、後の頼家数えの五歳)が、鶴岡八幡宮へお参りに行きました。輿に乗っていきました。小山五郎宗政、同七郎朝光、千葉平次常秀、三浦平六義村、 梶原三郎景茂、同兵衛尉景定がお供をしました。帰りに八幡宮の流鏑馬馬場の出発点馬場本の接待用の仮屋で、お弁当を差し上げましたとさ。
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藤沢余一盛景は、諏訪神社の神職大祝の訴えによって、先だって頼朝様のお怒りを受けました。それを今日、許されました。その理由は、藤沢盛景が諏訪神社に寄付されている黒河内と藤沢で、神事としての狩を腕ずくで止めてしまい、しかも神社の拝む場所拝殿の造作を邪魔しました。その事を神社が泣きついて来たので、お叱りになられ、その罰にしたのです。
それなのに神職が云うには、仲間への見せしめのために、勝手な行動を止めさせるように、命令を出していただこうと申し上げたところ、すぐさまに処罰されたのでは、(年貢も手伝いも無いので)神様に無礼になるでしょうとの事でした。それなので、狩の邪魔しない、拝殿を作るの二つのことを、今までの規則を守って、急いでやらせるようにしなさいと、よくよく行って聞かせましたとさ。
命令する 信濃国の黒河内と藤沢のこと
さっさと前に出ている命令書のとおりに、すべて大祝の指示に従って、神事などをきちんと勤める事
右に書いたその二つの郷は、諏訪大明神に寄進したので、それ以外の義務はありません。それなのに藤澤余一盛景は本来の決め事を忘れて、神社恒例の狩の神事を腕ずくで止めたのと、拝殿の造作をおろそかにした事、その年貢納付を拒んだ時から、簡単に変えてしまったけれど、さっさと前例どおりに、一つは神事の狩を勤める事、一つは拝殿の修理をすることについては、絶対に遅らせないこと。諏訪神社は、神主や大祝の指示に従うのを真っ先にすべきである。なんでその指示に背くような事をしたのだ。どう考えたってとんでもない事である。
元暦三年十一月八日
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頼朝様は、義経のことで、なおも師中納言吉田經房に手紙を送りました。その内容は、義行(義経)が未だに姿を現していない。これは、一つは朝廷の公卿も役人達も皆そろって鎌倉を嫌っている。一つは京都の庶民達も義経を贔屓して企んでいるからに違いない。中でも、藤原範季が義経に味方している事をお怒りになっておられます。又、以前から仁和寺宮守覚法親王も見方をしていると聞き及んでいます。このようにしたのは、以下の理由によるそうです。それは、大夫尉友実が与州(義経)の使者として、京都から摂津国へ出かけていきました。その間にその友実の住んでいる屋敷を北條時政殿が差し押さえました。その場所が御室仁和寺のご近所でした。直ぐに事情を問い合わせたところ、反逆者の家ではないようだと、一旦はお詫びをしましたけれど、この家は御室から友実が借りている事が、判明したので、かなり義経の味方をしている疑いが無いわけではないので、このようにしたんだとさ。
話し変って、大夫属入道三善善信が云うのには、義行の名の訓読みは「良く行く」になる。だから旨く隠れる事になるんだ。だから未だに捕まらないのでしょう。こういうように名を変える場合は、その訓読みを良く考えるべきである。縁起の悪い文字と同じ発音は止めたほうが良いのだなんだそうだ。その話を聞いて元のように「義経」に戻すように、摂政家九条兼実が言いましたとさ。
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信濃国伴野庄(長野県佐久市伴野)の年貢の送付文が到着しました。頼朝様は、直ぐに添え書きを付けて京都へ送らせました。地頭の加々美二郎長淸が、ここのところかなり怠けて滞納していたからなんだとさ。
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甘縄神社の社殿に修理を施させました。今日、社殿の四周に目の荒い垣根と鳥居を立てられました。藤九郎盛長が担当をしました。頼朝様は仕事具合を監視に来ました。小山五郎宗政、同族の七郎朝光、千葉小太郎胤正、佐々木三郎盛綱、梶原刑部烝朝景、同族の兵衛尉景定がお供をしました。
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長門江太景国は、御台所政子様から嫌われてしまいました。(ご不興を買いました。)それは、頼朝様の妾が産んだ若君(先だっての二月に誕生しました)を育てている事が、ばれてしまったからです。今日、景国は若君を抱いて、外鎌倉の深沢の里あたりに隠れ住みましたとさ。
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丑剋(午前二時頃)雑用の鶴次郎が使い走りとして京都へ向かいました。これは、木工頭範季は義経の味方をしている事を、特に(京都朝廷へ)申し入れるように北条平六兵衛尉時定に命令を出されました。三日で行くように決められたところです。
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先月、比企藤内朝宗達が奈良へ攻め入って、聖弘得業の僧坊あたりを家宅捜査しましたが、義行〔本名は義経、先だって(京都朝廷で勝手に)改名しました〕を見つけられず、手ぶらで京都へ帰ってきました。これが原因で、奈良では大騒ぎになりました。自治権の侵害だと僧兵達が決起集会をして鬱憤を晴らすため、朝廷鎮護の儀式の維摩経の法会をやらせないぞと騒いでいると噂が流れましたとさ。
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京都朝廷へ貢ぐ馬と藤原秀衡が送ってきた黄金を京都へ送られます。主計允藤原行政が上申書を書きましたとさ。
送り申し上げます
おん馬五頭
鹿毛斑
葦毛斑
黒栗毛
栗毛
連銭葦毛
右のとおり、お送りするのはこのとおりです。
文治二年十月三日
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陸奥国の京都朝廷へ納める年貢の黄金四百五十両を、平泉の藤原秀衡が献上してきました。それは、頼朝様がこれを京都へ取次ぐためなのです。又、京都賀茂神社の賀茂別雷(かもわけいかずち)神社の領地の出雲国福田庄(島根県雲南市加茂町神原)石見国久永保(島根県邑智郡邑南町)三河国小野庄(愛知県豊橋市加茂町石巻小野田町)のことは、頼朝様の命令書を作成して、神社管理者の社家に与えました。この神社の事は、頼朝様のご信奉が他の神社とは比べ物にならないからです。そのほかに、後白河院、斎宮、東宮、皇太后宮を始めとする権力者達の領地への地頭の新たな設置は止めるために、先日京都朝廷からその地名を書いた目録をよこしてきました。しょうがないので、次々と詳しい事情を調べ尽くして、頼朝様の命令書下し文を作成されて、今日京都へ送られましたとさ。
その文書に書いてあるのは
先日戴きました命令書の中で、天皇家の神社仏閣の領地には、せんだって裁決して処置いたしました。その他にも、後白河院、斎宮、東宮、皇太后宮を始めとする権力者達の領地、それに色々な家柄や役所、国衙の季節ごとの読経や祈祷の費用調達地、便宜補填として与えられた領地などへ、命じた命令書が二百五十枚、手紙が二通、それとこの手紙、それらを書き表した目録を副えて、一つ一つ裁決してお送り致します。武士が不当に横取りした場合は、こちらへ良し悪しを言ってきて下さい。そうすれば、お尋ねの内容については、云ってこられたよう、その間違いを正しますからね。たまにそれ以外のことが多少でも混じっている場合は、事情を存じませんので、出来ませんけれども、今回については、ご命令に従って、殆ど命令書を作り出しました。凡そは、このような事は、今から以後は、摂政家九条兼実様に申されて、院の事務所の記録所に命令されて、処断してください。こういう内容で、後白河法皇に伝えていただきたく。頼朝恐れ敬って申し上げます。
十月一日 頼朝
お送り致します 師中納言吉田経房殿
個人的に追伸します。伊勢神宮の式年遷宮は、来年か再来年でしたっけ。特にその用が無くっても、私が承りますので、命じてください。また、普段から遠いところに居りますので、このような後白河法皇にお見せする手紙については、花押を押すことにしています。それでも、大江広元や平民部烝盛時の筆跡でないときは、花押を押す事にしています。でも、この手紙は私自身のひとふでなので、花押は押しませんよ。宜しく。
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下野国(栃木県)寒川郡内の田んぼ十五町(15ha)を、日光山(二荒山神社)の仏道修行系費用の田として与えました。この寒川郡は、去年野木神社に寄付したのですが、その十五町は国衙領に切り離して扱うようにとのことなんだとさ。
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平六兵衛尉時定の伝令が到着して申し上げました。先日の二十日に糟谷藤太有季が堀弥太郎景光を捕虜にして、佐藤兵衛尉忠信を殺しました。景光が事情を申すには、義経はその間に、奈良の聖弘得業の所にいました。景光は義経の使者として、何度か木工頭藤原範季の所へ行って、相談することがあったんだ。なんだとさ。それで奈良の事を左典厩一条能保様に頼んで、後白河法皇に申し上げて、五百余騎の軍勢を比企藤内朝宗の配下につけて、義経を探すために、奈良へ行かせましたとさ。
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平六兵衛尉時定は、院の雑事をする召使の則国の手紙をとりなしました。この手紙は二通書かれています。一通は院の蔵人長に渡したそうです。もう一通が今日、鎌倉へ到着しました。この内容は、紀伊国の由良庄の年貢を七条細工紀太が横取りをした内容です。
命令を伝える。蓮華王院三十三間堂の領地の広庄と由良庄のこと
院の雑事をする召使の則国が云う藤三郎吉助丸が企てた荘園での横取りのこと
右の内容は、則国は後白河法皇の命令書を持って、鎌倉の使者〔検非違使の平六兵衛尉時定の代官〕と一緒にその庄園へ出張してきて、原因を調べたところ、その吉助は、以前には左馬頭一条能保様の使者で通称を藤内と言ってました。 それで今は則国がやってきた時は、吉助が云うには、「左馬頭殿と云うのは真っ赤な嘘なんだ。吉田中納言阿闍梨(忠豪)の使者である。」と名乗っておいて、「後白河法皇の院宣なんか関係ないんだ。」と云って、散々に悪口を言って使者を叩き出そうと考えて云いました。「俺の兄弟分は、伊予国(愛媛県)で院の輿を担ぐ力者二人の首を切ったんだぞ。ましてや召使なんぞの言うことをいちいち問題にするかよ。」と云う始末です。しかし、則国が詳しい経緯を国衙の(刑事事件を扱う)検非違使所の次席代官の小目代に言い聞かせたので、小目代が詳しい事を陳述したので、企みが露見して、予期せぬことになったので、夜中に逃げ去ってしまいました。この吉助は、平家家人の平貞能の家来の高太入道丸の舎弟分です。今又も悪巧みを企んで、蓮花王院の庄園を横取りしようとしました。その罪は本当に深いものでしょう。又、その吉田中納言阿闍梨(忠豪)は、七条細工紀太守貞から文書を入手して賄賂を使い、北条一門の関係者と仲間に引き込み、悪事を企んだと云うことだとさ。その吉田中納言阿闍梨(忠豪)は、七条細工紀太守貞を院の庁で捕まえて、戒めを与えれば、これ以後の無法な行為はなくなるでしょう。そう云う訳で、ありのままに文書を書いて、申し上げるのはこのとおりです。
文治二年九月十一日 御使の召使藤井〔花押〕
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糟谷藤太有季は、京都内で義経の家来の堀弥太郎景光〔暫く京都に隠れ住んでいました〕を生け捕りました。又、中御門東洞院で、同じ義経の家来の佐藤忠信を殺しましたとさ。有季が勢い良く駆けつけましたが、忠信は元々豪傑ですので、ひるまず戦いましたので、簡単には討ち取ることができません。それでも、多勢で攻めかかったので、忠信と従者の二人は叶わないと知って自殺してしまいました。この人は、義経に従っていましたが、あの日宇治のあたりで別行動に移り、京都の街中へ戻り、以前に関係していた若い女を見つけて、一通の手紙を届けさせました。その女はその手紙を見て、今の夫に見せました。その夫は糟谷藤太有季に通報しましたので、現場に急行していって忠信を見つけることができましたとさ。この忠信は、東北の王者鎮守府将軍藤原秀衡の親戚の者です。義経が去る治承四年に関東へ向かった時に、勇敢な武士を選んで、兄継信と一緒に義経に付け与えましたとさ。
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女房少將局の使いの者が、鎌倉にやってきました。蓮華王院法華堂の領地、伊勢国釈尊寺を武士に横取りされているので、早く止めさせて欲しいとのことでした。
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靜御前とその母が許されて京都に帰ります。御臺所政子様と大姫君(数え年9歳)は憐れみ慈しんで沢山のお土産を贈りました。彼女は、義経の居場所を調べるため、鎌倉に連行され下ってきました。しかし、吉野で別れてからのことは知らないと云いました。すぐに帰してやることにしましたが、産後の養生のためしばらく留まっていたのです。
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梶原刑部烝朝景が、昨夜京都から帰ってきました。これは、去年勇敢な武士達を選んで西国の二十六カ国に派遣した時、土佐国へ向かいました。頼朝様からの厳しい命令どおりにきちんと処理をして、地域を平和に鎮めたので鎌倉へ帰ってきました。今日、頼朝様は御前にお呼びになられ、京都の連中の動向を質問されました。始めに義経が逃げ去った後の朝廷の始末の様子と義経に同意した公家の連中の事などを、残らず詳しく報告申し上げました。又、朝景が云うのには、春三月の頃に、盗賊の親分の平庄司〔丹波の侍〕を召し取って検非違使の左獄舎(監獄)へ閉じ込め置きました。そしたら、子分供が襲撃をしてきて、その監獄を破って、親分の平庄司以下の囚人が全て逃げ出してしまいました。それなので警察庁長官の検非違使別当(筆頭)〔家通〕は、検非違使の役人廷尉達に命令して、あっちこっちを探させましたが、出てきませんでした。そこで、八月十一日に梶原刑部烝朝景がふんづかまえて、同二十一日に検非違使別当(大理)の検非違使所へ連れて行って、検非違使の役人廷尉に受け取らせましたとさ。
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最勝寺の領地、越前国大蔵庄について、北條四郎時政の代官時定と常陸坊昌明が年貢を横取りしたので、寺からの上申書を副えて、院宣をよこされました。それなので、頼朝様の判断を経て、今から後は、北條四郎時政が支配しているとは云っても、本所の寺の命令を無視してはいけない。早く新しく行っている本来の慣習ではない行動を止めて、本所の寺の指図に従って、年貢や勤労奉仕の勤めをするように、命じて下さいました。
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重陽の節句を迎えて、大和判官代邦道が菊の花を献上しました。すぐに中国の諺にある長寿の基の菊の花を、北側屋敷の坪庭に植えさせました。良い香りが周囲の建物で囲まれたので、菊の持つ甘い雰囲気が柵の内に満ち満ちていました。毎年必ずこの菊の花を献上するようにと、大和判官代邦道に言いつけなされました。気が付くと一枚の紙が菊の花の枝に結び付けられていましたので、ひらいてみたところ七言絶句の詩が書かれていましたとさ。
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頼朝様は、由比浦から深沢の里あたりまで、色々と見て回られました。岡崎四郎義實が弁当を差し上げましたとさ。
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諸国の荘園や公領の支配を無視しているとの話が、伝わってくるので、決められた土地からの収益以外には介入してはならないので、地頭の取り分以外を求めてはいけない。年貢を始めとする勤労奉仕等の義務を怠けてはいけない。違反した連中は、特に罰するように決められましたとさ。
又、賀茂別雷社の所領の事で、後白河法皇からの手紙が届いたのには、地頭の支配を止めて、社家に任せるように命じられました。その他にも、同社の所領の備後国有福庄での、土肥次郎實平の年貢の横取りを止めるように命じたんだとさ。
命令する 近江国安曇川御厨(滋賀県高島市安曇川町)へ
さっさと佐々木太郎定綱の支配を止めて、前々からの例の様に、神様への納付や奉仕をきちんと勤めること
右の内容は、その御厨は、賀茂別雷社の所領である。それなのに最近、あの佐々木太郎定綱の無道な支配によって、決められた神様への奉仕を怠っているとの事を、社家の申し出状を副えて、後白河法皇から云って来られました。今から以後は、早く佐々木太郎定綱の支配を止めるように。関東の武士の仕業以外の事は、後白河法皇の京都朝廷へ申し出て、判断を受けるようにとの手紙はこのとおりである。そこで命令する。
文治二年九月五日
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土佐守源国基は、頼朝様の一族です。特に堅い約束があります。それなので、伊勢国玉垣御厨(本所は伊勢神宮領、鈴鹿市玉垣町)の徴税管理の領家職を始めとする多くの領地をお与えになりました。又、その家来の刑部丞景重は、関東へ来て仕える様に命じられました。彼は渡部党です。
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蓮花王院三十三間堂の領地の紀伊国由良庄内(和歌山県由良町)で、京都七条通の銅細工所の通称紀太(宗守貞)が悪巧みをして、年貢を横取りしてしまったと、上部領主の藤原範季様が正式の抗議文とそれに伴う後白河院からの命令書の写しを送ってきたので、今日、手紙に基づいた命令書を出すように命じられましたとさ。
命令する 蓮花王院三十三間堂の領地の紀伊国由良庄の現地管理役人へ
さっさと、銅細工の七条紀太(宗守貞)の年貢の横取りを止めさせる事
右の通り、その荘園での、あの細工人の悪巧みを止めて、後白河法皇からの命令に従って、領主職が荘園を治めさせるようにとの命令はこの通りなので、あえて命令する。
文治二年八月廿六日広荘と由良荘での納税の邪魔をされている事について、訴え状をお出しいたします。どうか、朝廷から命令を出していただくようにお願いします。七条紀太丸は特にひどいのです。最も重い罪に罰してください。奴の領主と云うのは平基親様だそうです。貴族社会の事情(暗黙の規則慣習)を知らない田舎者なので、尚更にこのような無茶な悪巧みを企んだのではないでしょうか。とんでもないことであります。とりわけ、後白河法皇が熊野詣にお出かけになられるとの、噂も聞いていますので、それらの荘園運営がうまくいっていないと、曲げ物などの桧物の容器が手に入らなくなります。従来から笠田荘でその勤めを果たしていましたが、(文学上人が)高尾の神護寺の荘園としてしまいましたので立ち入ることができません。少しでも急いで命令を出してください。恐れながら申し上げます。
閏七月二十四日 木工頭藤原範季〔上申します〕
蓮花王院三十三間堂の領地の紀伊国由良庄内(和歌山県由良町)での徴税を邪魔する事について、領主の木工頭藤原範季の訴えの文書を送付するのはこの通りです。詳しく調べるようにと、内々の後白河法皇の意向であります。よってとりなすのはこのとおりです。
閏七月二十九日 太宰権師吉田経房〔承って書きました〕
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小御所の東側を拡張修理していましたが、今日引越しの儀式がありました。この作業は上野の国全体に負担させたので守護の藤九郎盛長が担当指揮をしたんだとさ。
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大宰府安楽寺筆頭の安能は、平家のために祈祷した罪が有るので、頼朝様はお怒りだと京都へ申し入れていましたが、先日の六月二十六日に亡くなられたので、大法師全珍を変わりに任命するように、推薦を申し入れましたとさ。
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昼頃になって、西行上人は御所から出られました。頼朝様はさかんに引き止めましたが、敢えて従いませんでした。頼朝様は、銀でこさえた猫を贈り物として与えました。西行上人はこれを戴きながら、門の外へ出たらそばで遊んでいた子供に与えちまったんだとさ。この人は、東大寺復興を担当している重源上人から頼まれて、東大寺再興費用を集めて歩く勧進のために奥州(東北地方)へ向かいました。その途中のついでに鶴岡八幡宮寺へお参りに立ち寄ったんだとさ。奥州藤原氏の藤原秀衡は、上人と同族です。
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