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2008年5月 1日 (木)

第四巻元暦二年(1185)二月(屋島合戦)

元暦二年(1185)二月小一日乙卯。源參河守範頼は、豊後国へ渡りました。北條小四郎義時・下河邊庄司行平・澁谷庄司重國・品川三郎等が先頭を切りました。そして今日、筑前の葦屋浦で、大宰少貳種直とせがれの賀摩兵衛尉種益が、軍隊を引き連れて出会い、合戦を始めました。下河邊庄司行平や澁谷庄司重國が周りを廻りながら矢を射掛けました。彼等も攻撃をしてきますが、澁谷庄司重國に射られっぱなしです。下河邊庄司行平は、美氣三郎敦種を殺しましたとさ。

元暦二年(1185)二月小五日己未。典膳大夫中原久經と近藤七國平は、頼朝様の代官として京都へ上りました。「前にも使者ととなりましたが、他の人が代わりに行ったので、今度は役目を果たす事になりましたとさ」この役目は、平家を追討している最中なので、ついでに軍事用食料だと偽って、あちこちの武士が、京都やその近辺のあっちこっちで横取りをするので、公卿たちが嘆いています。そこで、平家の滅亡を待っていないで、とりあえずそう云う横行を止める為に、出張させたのです。まず中国地方の十一カ国(長門・周防・出雲・伯耆・美作・安芸・備後・備中・備前・播磨・丹波)を統率して、次に九州四国へ行くように、事は何でも全て朝廷へ奏上(伺って)して、命令に合わせるように。それ以外は一切、自分の考えで手出しをしてはならないと決めて、(頼朝様は)命じられましたとさ。現在は二人共、たいした大名ではないけれども、典膳大夫中原久經は、父の左典厩義朝の時代に手柄を立てており、又、文章能力に長けているからだとさ。近藤七國平は、勇士で、生真面目だと評判なので、(頼朝様は)このように計られましたとさ。(頼朝様の)命令を受けて、それぞれ理屈に合った正しい行いをするように、起請文(誓いの文書)を提出したんだとさ。

元暦二年(1185)二月小十三日丁卯。頼朝様は、伊豆国へお出かけになられました。それは、新規の寺を建立するために、狩野山から普段材木を調達しているので、その実地検分をするためです。

元暦二年(1185)二月小十三日丁卯。(頼朝様は)平家討伐の神の加護があるようにお祈りをするために、鶴岡八幡宮寺の本堂の前で、鎌倉中の坊さんを呼び集めて、大般若経を轉讀(経文をあおりながらお経を読む)させました。京都朝廷でも、同様に二十壇飾りをして二十人の坊さんが密教の呪詛を行いましたとさ。

今日、伊澤(石和)五郎信光の手紙が、九州から頼朝様がとまっている伊豆の館へ到着しました。その内容は、平家を追討する作戦実行のために、長門国(山口県)へ入りましたが、この国は飢饉がひどくて、兵糧を集められないので、仕方が無いので安芸国(広島県)へ戻ろうと思います。他にも九州へ攻めようとしましたが、船が無いので、進軍が出来ませんだとさ。直ぐにご返事に書かれたのは、兵糧が無いので長門から撤退するなんて、今、敵に向かって行かなくちゃ、どうすんのよ。九州へ攻める事は、今はやるべきじゃないだろう。まずは、四国へ海を渡って、四国の平家と戦闘をするようにだとさ。

元暦二年(1185)二月小十四日戊辰。源參河守範頼さんは、当時周防国(山口県東部防府市あたり)に居る時に、頼朝様が命じられましたのは、土肥次郎實平や梶原平三景時と話し合って、九州勢を味方に呼んで見なさい。それを実行して、若し降参して味方に付くようなら、九州へ行くのが良い。そうでなければ、九州の連中と戦闘をする必要はない。直ぐに四国へ渡って、平家を攻撃しなさい、と云われました。しかし今、源參河守範頼は九州へ行こうとしたが、船が無いので進軍できない。機会があったので、長門国(山口県西部)まで来たけれども、食料が無いので、元の周防国へ引き返しました。関東武士達は、とうとう気が変わってきて、云う事を聞かなくなってきた事をこぼしてきました。その伝令が、今日伊豆国へ着きました。それなので、今度の合戦を勝ち終えずに京都へ戻ってしまったのでは、何の自慢になるって云うんだい。食料は送るので、我慢をしてその到着を待ちなさい。平家も故郷を出て、放浪の旅の途中だと云うのに、まだまだ戦おうとしてるじゃないか。それに比べ朝廷からの追討使に任命されているのに、なんで勇敢に戦おうという意思を貫かないんだと、手紙を源參河守範頼と御家人達へ出されましたとさ。

元暦二年(1185)二月小十六日庚午。関東の軍隊は、平家追討のため、讃岐国(香川県)へ向かいます。源九郎義經様は、先陣として今日船出しました。大蔵卿藤原泰經様は、源九郎義經様の晴れ晴れしい出陣の様子を見たいと云って、前の日から源九郎義經様の旅の宿に来ていました。そして、泰經卿は注意しようとして言うのには、「泰經は武士ではないので兵法は知らないけれども、おおよそ推測してみると、大將軍は昔から一戦の先陣を争ったりしないで、先に副将を行かせるんじゃないの。」源九郎義經様は言いました。「私のは思うところがあって、戦毎に死ぬ気でやっているんです。」だとさ。と言い切って直ぐに出発をしました。さすがに鍛えられた強い軍人だと云えるんじゃない。一方平家は、陣営を二箇所に分けて構え、前内大臣の宗盛は讃岐国(香川県)の屋島に陣営を築いて、新中納言知盛は九州の兵隊を集めて門司関(下関)を見張って、彦島を本陣と決めて、源氏軍を待ち構えているのだとさ。

今日、頼朝様は、相州鎌倉郡の山野を駆け巡っていたので、藍澤原(横浜市瀬谷区相沢)で、源參河守範頼様の幕府経由で廻り届いた手紙に添えて、追加のお手紙をお渡しになりました。又、別な手紙を北条義時殿、中原親能、比企藤内朝宗、比企四郎能員達にも出されました。それは、平家を滅ぼすまでは、皆で心を一つにして戦うようにでした。

元暦二年(1185)二月小十八日壬申。源九郎義經様は、昨日渡部の津(大阪市北区中之島)から船で海を渡ろうとしたところ、急に暴風が起きて、船が沢山壊れてしまいました。それで兵達は、船を一艘たりとも出そうとはしませんでした。そしたら、源九郎義經様は言いました。「京都朝廷の敵を追討する役目が多少でも留まり待つことは、朝廷に恐れ多いことである。風や波による損害を考えるべきではない。」だとさ。そう云うので、午前二時頃にまず五艘の船を出航させました。午前六時頃に阿波国(徳島県阿南市)椿港に着きました。〔普通なら三日はかかる行程です〕直ぐに百五十騎の武士を連れて上陸しました。阿波国の豪族の近藤七親家を呼びつけて、案内人として屋島へ向けて出発しました。途中の桂浦で、桜庭介良遠〔散位成良の弟〕を攻めたところ、良遠は城を捨てて逃げてしまいましたとさ。

一方関東では、夜になって頼朝様は伊豆から鎌倉へ帰りついたんだとさ。

元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。今日は、南御堂の地鎮祭です。頼朝様〔香を焚き染めた水干を着て、月毛の馬に乗られ〕その場所へ参られました。南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、建築技術者に褒美を与えました。褒美に馬を引き出しました。

その後、熊野神社領地の三河国竹谷(蒲郡市竹谷町)蒲形(蒲郡市御幸町)の両方の荘園の事を、裁決なされました。これ等の荘園の本来は、開発した領主の散位俊成が熊野神社に寄付したので、熊野別当の湛快がこれを領有して、娘に譲渡しました。その娘は最初は行快僧都の妻でしたが、その後前薩摩守忠度朝臣と再婚しました。忠度は一ノ谷合戰で討たれてしまい、平家没官領として朝廷が召し上げて、後白河法皇から頼朝様が戴いた土地です。それだもんで、開発領主の俊成の娘は、先の夫の行快に泣きついて云うには、「さっさと事情を関東に泣きついて、その両方の荘園を与えて貰って下さい。もし、そうなれば、先々行快の子供〔彼女が生んだ〕に譲渡するから。」そこで、この話を了解して、行快僧都は熊野から使い〔僧の栄増〕を鎌倉へよこして申し上げて来ていることなのです。行快と云うのは、行範の息子で、頼朝様の祖父の廷尉禪門〔爲義〕の外孫に当たります。源氏の親戚なので、縁は他人とは一緒に出来ないので、元々大事にしようと思っていたので、この窮状訴えがあったので、是非も無く命令を出しました。信仰心も厚いのでなおさらだとさ。

一方、源九郎義經は、昨日の夜遅くに、阿波国と讃岐国の境の中山を越えて、今日の午前八時頃に屋島の平家軍の向かいの浦へ着きました。牟礼や高松の民家を焼き払い、大軍に装ったので、その煙を見て安徳天皇は建物から出られ、宗盛は平家一族を連れて船に乗り海上へ逃げ出しました。

源九郎義經様〔赤地錦の直垂に、紅下濃の鎧を着けて、黒馬に跨っています〕は、田代冠者信綱、金子十郎家忠、息子の余一近則、伊勢三郎能盛を引き連れて、波打ち際へ攻め向かいました。平家は又、船を移動させながら、弓矢を応戦をしました。

一方、佐藤三郎兵衛尉繼信・佐藤四郎兵衛尉忠信・後藤兵衛尉實基・同養子後藤新兵衛尉基淸等は、安徳天皇がおられた内裏や宗盛がいた陣営の建物を燃やしました。黒い煙が空へなびき、日の光を遮るほどでした。これを見た平家の家来の越中二郎兵衛尉盛継・上総五郎兵衛尉忠光達は、船を降りて宮門の前に陣営を構えました。合戦が始まると源九郎義經の家来の佐藤忠信が弓矢で討ち取られました。源九郎義經はとても悲しんで、一人のお坊さんにお願いして、千株松の根元に埋葬しました。大事にしている名馬〔大夫黒と呼ばれ、元々は後白河院の厩においていた馬で、法王のお出ましにお供をするときに、院から戴いたのです。戦場に出るたびにこの馬に乗っていました〕をお布施としてそのお坊さんに与えました。この話は、自分の強い家来を大事に慰めた行いなので、美談だと褒めない人はありませんでしたとさ。

話し変わって、同じ日に住吉神社の神主津守長盛が京都へやってきて、院への取次ぎを通して云うには、先日の十六日に、住吉神社恒例のお神楽を奉納したら、真夜中の零時頃になって、音の出る鏑矢が神殿から飛び出し、西の方を目指して飛んでいきましたとさ。これは、平家追討のお祈りをしていたので、神様の霊験あらたかと云う事でしょうかねぇー。

元暦二年(1185)二月小廿一日乙亥。平家軍の一部が、讃岐国(香川県)志度の志度寺へ立てこもりました。源九郎義經様は、八十騎の軍隊を連れて、そこへ追いつきました。平家の家来の田内左衛門尉は、源九郎義經に降伏服従しました。又、河野水軍の河野四郎通信が三十艘の軍船を整えて参加しました。源九郎義經は阿波国へ船で行きました。それは熊野神社長官の湛増に源氏方へ加勢するために、同様に海を渡ると噂が流れましたとさ。

元暦二年(1185)二月小廿二日丙子。梶原平三景時軍の関東の兵士が、百四十数艘の船で、屋島へ到着したんだとさ。

元暦二年(1185)二月小廿七日辛巳。夜になってから、平家追討を祈るため、加茂神社にお神楽を奉納しました。宮人の曲を奏でましたとさ。

元暦二年(1185)二月小廿九日癸未。加藤五景員入道が、幕府の頼朝様の前へ上がり、一通の手紙を目の前においたので、「どうしたんだ?」と尋ねると、泣き出しました。少しして言い出すには「愚息の加藤次景廉が源參河守範頼様のお供をして、九州へ下りました。しかし、先月周防国から下って、豊後国へ船で渡ろうとした時に、加藤次景廉は病気になってしまいました。それでも、病の体を船に乗せてまで、猶一層お供をしていると子の手紙で言ってきました。頼朝様の御為に戦場に向かっては何度も死の危険に出会い、今は病気に冒されている。とても死から逃れるのは難しいでしょう。二度と会えないかと思うと、年寄りが生きていてもかいがないというものです。」だとさ。頼朝様もその話を聞いてもらい泣きをしながら、加藤次景廉の手紙〔ひらがな〕を見ました。「何時も側近としてそばにいるように、念を入れて命令に従っていたが、天下の一大事に臨んで、これ以上じっとしていられないと、行かずに良いものをわざわざ行ったものだから、病気になって、しかも重いらしいじゃないか。例え病気で死んだとしても、戦働きで敵に殺された手柄にして犬死にはしないからさ。」と思っているからと、伝えました。

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