2009年11月11日 (水)

第九巻文治五年(1189)八月大二十二日己酉

土砂降りです。(頼朝様は)申の刻(午後四時頃)泰衡の平泉の館へ到着しました。家の主は行方をくらまし、家は又煙となりはてています。数町(数百㍍)先の範囲の縁まで、静かで人はおりません。土塁で囲まれた屋敷も、跡形も無くなり残るのは地面ばかりです。ただただ秋の風が吹きぬけ、幔幕をなびかせるような音はしていても、粛々と降る雨が窓を討つ音さえも聞く事が出来ません。しかし、坤(ひつじさる南西)の角に、一棟の倉庫が火を逃れてありました。葛西三郎淸重、小栗十郎重成を行かせて、これを検査させました。沈香や紫檀等の異国からの輸入品の唐木の厨子がいくつかあり、中に入れてあるものが、牛の玉、犀の角、象牙の笛、水牛の角、紺色のガラス等で出来た笏、金の沓、玉でできたの仏教の旗飾りの幡、金の華鬘〔玉で飾ってある〕、中国製の蜀江錦の直垂、縫っていないカーテン、金細工の鶴、銀細工の猫、ガラスの火皿、銀塊百〔それぞれ金の器に盛ってある〕などでした。その他にも、上質の素材を用い、刺繍を数多く施した美しい衣服の綾羅錦繍は、名も知れずとても書き出せるものではありません。象牙の笛と縫っていないカーテンは葛西淸重に与え、玉でできたの仏教の旗飾りの幡、金の華鬘は、小栗十郎重成が望んだので、同様にこれをくれてやりました。自分の氏寺に飾りたいのだと言っているからです。昔中国で、瞽叟の息子の舜は親不孝の名を残したが、この武力大勢を持った大物の倅は、自分の死後に備えて、善い行いとなる仏教用具を用意していた。財宝や珍しいものを集めようとの思いは、時代によって変っていくのになあ!

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2009年11月10日 (火)

第九巻現代語文治五年(1189)八月大二十一日戊申

雨が激しく暴風です。泰衡を追いかけて、岩井郡平泉へ向かわれました。泰衡の家来が栗原や三迫等の険しい要害の砦で、鏃を研いで戦闘に備えていましたが、攻撃軍が大軍で攻めたので、防戦しきれずに主だった人の若次郎は三浦介義澄軍に殺され、九郎大夫は、所六郎朝光が討ち取りました。この他の兵隊達も徹底的に殺されました。残っていた三十人ほどを生捕りにしました。そこで頼朝様は、松山道を通って津久毛橋に到着しました。そこで梶原平次景高が一首の和歌をつくり、これを申し上げました。

 陸奥の勢は味方に津久毛橋 渡して懸けん泰衡が首(陸奥の勢力も既に(頼朝様のご威光の前に)味方につくもばし、後は掛け渡すべき泰衡の首だけですね)

そりゃ眼出たいと、お喜びのお言葉がありました。一方、泰衡は平泉の館を通り越して、なおも逃げていきました。敗北が予想外に急な出来事だったので、自宅の門前を通りながらも、少しも寄っている暇もありませんでした。わずかに家来達をその館に行かせて、高屋、宝倉などに火をつけさせました。杏の木の梁や、桂の木の柱など豪奢な屋敷も、先祖三代の旧跡も、華麗な金のや玉などの折角溜め込んだ宝物も、あっという間に炭や灰になってしまいました。倹約質素な者は残れるけど、奢り高ぶっている者は続かないものである。本当に慎むべきものなのである。

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2009年11月 8日 (日)

第九巻文治五年(1189)八月大二十日丁未

卯の刻(午前六時頃)に、頼朝様は玉造郡へ向かわれました。すぐに、泰衡の多加波々城を囲ませましたが、既に泰衡は城から出て逃げて行った後でした。自分の意思で城に残っていた家来達は、手を差し出して降伏投降して来ました。仕方が無いので葛岡郡に出て、平泉に向かわれました。戌の刻(夜八時頃)に、命令書を先に進んでいる先陣にお出しになられました。それは、小山の連中を始めとして、三浦十郎義連、和田太郎義盛、小山小四郎朝長、畠山次郎重忠、和田三郎宗實や武蔵の国の小武士団の党の、人達はそれぞれにこの命令書の写しを取りました。これを読んで、その趣旨を理解して、作戦をねるようにと、書かれております。その内容は、それぞれ敵を追いかけて津久毛橋の辺りまで行っても、敵はそこには居ないでしょう。平泉に入る際には、泰衡が城を構えて、兵隊達を置いて待っている事であろう。それなので、たった千や二千騎で向かって行ってはならない。二万騎の軍隊を整えて、一気に攻め立てるように。すでに敗北の兵(手負いの獅子)が相手なので、侍一人でも無駄死にさせる事の無い様、気持を持って行きなさい。

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2009年11月 7日 (土)

第九巻文治五年(1189)八月大十八日乙巳

藤九郎盛長が預かっている預かり囚人(めしうど)の筑前房良心は、藤九郎盛長に従って奥州へ下りました。その彼が先日十四日の物見岡での合戦に、泰衡の家来を討ち取りました。そこでその手柄として囚人身分を許すように仰せになられました。この人は、刑部卿平忠盛の四代の孫、筑前守時房の息子です。壇ノ浦合戦の宗盛が殺された後は、囚人として預けられた居ました。出家はしておりますが、武芸に達しているので、この度一緒に連れて行かれましたとさ。

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2009年11月 5日 (木)

第九巻文治五年(1189)八月大十五日壬寅

今日は、鶴岡八幡宮の生き物を放って供養をする放生会です。先月の一日にこの行事を行いましたが、正式の実施日なので、強いてこの儀式を行いました。筥根權現の稚児が八人も参加して、舞楽を踊りました。飾り馬や流鏑馬もいつもどおりに行いましたとさ。

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2009年11月 4日 (水)

第九巻文治五年(1189)八月大十四日辛丑

泰衡が、玉造郡に居るらしいと噂がありました。又、国府中山(仙台)の北の物見岡(登米市津山町)に陣地を構えていると言う話も伝わってきています。情報が二つもあるので、どちらとも決め難いのではありますが、玉造に居ると言う方が確からしいので、多賀国府(多賀城址)から黒河(黒川郡)を通って、その玉造郡へ向かう事にしました。しかし、物見岡も調べてみたいので、小山兵衛尉朝政、同族の五郎宗政(長沼)、弟七郎朝光(結城)、下河邊庄司行平(従兄弟)達が、そのために、物見岡へ走って行き砦を囲みましたが、大将軍はその前に逃亡し、そこには幔幕だけが残されていました。それでも居残っていた四五十人が対戦してきましたが、小山四郎朝政や下河邊庄司行平の武力の強さで、或る者は首を刎ねられ、或る者は生け捕りにされ、残らず平らげてしまいました。その時、小山四郎朝政が言うには、我々も幹線を通って先へ向かい、主力軍に合流しましょうか。下河邊庄司行平は、玉造の合戦にとっては枝葉に過ぎないので、早く本隊へ行きましょう。と言って、馬に鞭を入れたので、小山四郎朝政も直ぐにこれに着いて行きましたとさ。

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2009年11月 3日 (火)

第九巻文治五年(1189)八月大十三日庚子

比企藤四郎や宇佐美平次達は、出羽国(山形秋田県)へ攻め込んで、泰衡の家来の田河太郎行文や秋田三郎致文達の首を上げましたとさ。」

今日、頼朝様は、多賀国府にお泊りです。

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2009年10月31日 (土)

第九巻文治五年(1189)八月大十二日己亥

一昨日の合戦の時に、千鶴丸は、若い少年の歳ながらも敵陣に攻め入り、何度も矢を放ちました。また、名乗りを河村千鶴丸と上げておりましたそうな。頼朝様は初めてその名を聞かれました。そこで感激の余り、今日船迫の宿で、その父の名を尋ねられました。その子は、山城権守秀高の四男であると申し上げました。そこで、頼朝様の御前で元服式を行い、河村四郎秀清と名乗らせました。烏帽子親は、加々美二郎長淸です。この秀淸は、大分前の治承四年の石橋山合戦の時に、兄河村三郎義秀は大庭三郎景親の謀反に参加したので、敗戦後浪々の身となり、母〔頼朝様の御所の女官で京極局と云います〕が、策を練って、暫く名を隠して、局の傍らに置いて置きました。そうしておいて、今度の奥州合戦に出発される日に、元々の家来の勇士として認めてもらうようにお供についてきましたが、直ぐに合戦の腕を披露して、良い運が開けたのです。夕暮れになって、多賀国府にお着きになられました。

同様に、海道(常磐道)の大将軍、千葉介常胤、八田右衛門尉知家が参りました。千葉太郎胤正、同じ千葉の相馬次郎師常、同じ三郎胤盛、大須賀四郎胤信、國分五郎胤道、千葉六郎大夫胤頼、千葉小太郎成胤、境平次常秀と八田太郎知重、多氣太郎義幹、鹿島六郎、真壁六郎達は、千葉常胤や八田知家と一緒に、それぞれ阿武隈港を渡って参りましたとさ。

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2009年10月30日 (金)

第九巻文治五年(1189)八月大十一日戊戌

今日、頼朝様は船迫の宿にお泊りになられました。ここで、畠山重忠が国衡の首をご覧に入れました。「とても天晴れだ。」とお褒めのお言葉を戴いていると、和田義盛が頼朝様の御前に進み出て、申し上げました。「国衡は、私義盛の矢に当たって命をとられる事になったので、畠山殿の手柄ではありません」だとさ。重忠は、大笑いをしながら言いました。「義盛殿の言ってる事は、伸び放題の髭と同じ大法螺と言うんだ。殺したという証拠は何なんだね?重忠が首を手に入れ持ってきている以上は、疑いようが無いだろう。」とさ。義盛は続けて言いました。「首については言うとおりです。但し、国衡の鎧は、当然剥ぎ取ってしまったのでしょう。それをここへ持ってこさせて、事実か否か決めましょう。その理由は、大高山神社の前の田んぼの中で、義盛と国衡は、お互いに弓手に向き合い、義盛の射た矢が国衡に当たりました。その矢の穴は、国衡の鎧の左側の袖の上から二三枚目の小札に、絶対にあるはずなんだ。鎧の威毛(鎧を縅した糸や革ひも)は紅色で、馬は黒毛でした。」とさ。

その言い分によって、話の鎧を呼び出させたところ、紅威しです。頼朝様の御前に持ってこさせて、これをよく見ると左側の袖の上から三枚目の小札のやや後ろ側に、射抜いた穴が顕かです。まるで鑿を突き通したようです。そこで、頼朝様が仰せられました。「国衡に対して重忠は矢を放ちませんでしたか?」重忠は「矢を放ちません。」と答えましたので、それ以上問いませんでした。そうすると、その矢の跡は他とはちょっと違うので、畠山重忠の矢でなければ、義盛の矢であることは勿論であります。概ね和田太郎義盛の言っている事は、全てあっているので、間違いはありません。そうなると、畠山重忠は清廉潔白が信条で、嘘など無いのを本心としている人です。今度の事についても、何も悪巧みはしておりません。その時は、家来を先に行かせて、重忠は大軍の後方にいました。国衡が矢に当たった事も一切知らないので、単に大串が持ってきた首を重忠に差し出したので、討ち取った事を知った訳です。もののどおりに背いてはおりません。

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2009年10月29日 (木)

第九巻文治五年(1189)八月大十日丁酉

卯の刻(午前六時頃)、頼朝様はすでに阿津賀志山を越えられました。

大軍が木戸口を攻め立てながら近づいて行き、鉾や長刀が林立し、矢は雨のように飛んでいます。それでも、西木戸太郎国衡は、おいそれと敗北をしそうもありません。畠山次郎重忠、小山左衛門尉朝政、小山七郎朝光、下河邊庄司行平、成廣、三浦介義澄、三浦左衛門尉義連、加藤次景廉、葛西兵衛尉淸重達が、武力に任せ、命を顧みず奮戦しました。その戦いの喚き声や叫び声は、山野に響いて、村里を揺るがすほどです。

ここで、七日の晩に小山七郎朝光と兄小山左衛門尉朝政の家来の紀権守、波賀次郎など七人で、安藤次を山道の案内人に頼んで、それぞれが鎧兜を馬の背に載せて引きながら、内緒で旅館を出て伊達郡藤田宿(福島県伊達郡国見町)から、一旦会津の方へ向かって土湯嵩、鳥取を越えて、大木戸の上の国衡の陣地の裏山に登り、戦闘開始の大声を上げて矢を放ちました。これに城中では驚いて、絡めてからも攻めて来たぞーと大騒ぎです。国衡以下の大将たちは、要塞に閉じこもっていては勝ち目はないが、かといってどう作戦を立てたらよいか智恵も回らずに、たちどころに逃げ散ってしまいました。

空は明けて来ましたが、霧が濃くて見通せません。秋の山は薄暗くて、明けたと言っても道は濡れて滑りやすく、敵味方の区別がし難い間に、国衡の家来達は、魚が網の目を抜けるようにして居なくなる者が多いのです。しかし、その中に金剛別当の息子の須房太郎秀方〔十三歳〕は、踏みとどまって防戦します。黒の斑の馬にまたがり、たてがみを風になびかせ正面に構えています。その戦闘意欲は顕かです。工藤小次郎行光が駆け出してそばに行こうとすると、行光の家来の藤五男が間に割って入って、秀方と取っ組み合いになりました。顔を良く見れば、未だ幼い童顔です。名前を聞いても、会えて名乗りません。しかし、一人で居残って構えていたのには、さぞかし心構えが出来ているのであろうと、取っ組み合いの末に殺しました。その力たるやとても強くて童顔には似合いません。組み合っていても対等なので、戦いの時間がかなりかかってしまいましたとさ。

一方、小山七郎朝光は、金剛別当を討ち取りました。そんれから、逃げ帰った兵隊達は、泰衡の陣地へ走っていって、阿津賀志山の陣地は、大敗したと報告しました。泰衡は、思いがけない経緯に落ち着きを失い、慌てふためきながら逃げて、北の方へ行きました。国衡も行方をくらましました。頼朝様は、その後を追うことになりました。

お供の武士の中の和田太郎義盛は、軍隊の先頭を駆け抜けて、真っ暗な夜になって柴田郡の大高山神社のあたりに行きました。西木戸太郎国衡は、出羽街道を通って、大関山を越そうと考えました。なんと偶然にも今、大高山神社の前の道の右側のたんぼの畔を駆け過ぎました。和田太郎義盛は、これを追いかけて、「戻って手合わせをしろ。」と怒鳴りました。国衡が、それに答えて名乗りながら、馬をこちらへ向かせてたので、お互いに左側の弓手に敵を迎えて、国衡は十四握りの矢をつがえ、義盛は十三握りに矢を放ちました。その矢が、国衡が未だ弓を引く前に、国衡の鎧の左側の鎧袖を射抜いて腕に当たりましたので、国衡はその痛みに耐えかねて、攻撃態勢を解いて逃げ出しました。和田義盛は、これは特別な大将軍を射たので、遠矢にあてようと次ぎの矢を構えて体制を整えました。ところが時悪しく、畠山次郎重忠が率いている大軍が駆けてきて、義盛と国衡の間に割り込んできてしまいました。重忠の客分の大串次郎が国衡にでくわしました。国衡の乗馬は、東北一の優秀馬〔四尺九寸147cm〕で、高楯黒と名付けられています。ものすごい肥満の国衡がこれに乗って、毎日必ず三回は、平泉の高山へ駆け上っても、汗をかかない馬なのです。それなのに、国衡は和田義盛の二の矢を恐れ、しかも重忠の大軍を見てビックリして、逃げようとあわてて、手綱捌きを誤り、馬を深田に入れてしまいましたので、何度鞭を振るっても馬は田んぼから出られません。大串達は、チャンスを逃さずに殺してしまいました。すばやい動作でした

一方、泰衡の家来の金十郎、匂當八、赤田次郎を大将軍として、根無藤の辺りに城砦を構えていましたので、三沢安藤四郎、飯富源太を始めとする軍隊が兵を追いかけて走りながら攻撃を仕掛けました。敵軍も、降伏する気はさらさらありません。それなのでいよいよ持って互いに群れての戦いは、根無藤と四方坂の中間で、双方が戦い合わせること七回にも及びました。それでも、金十郎が討たれた後は、皆負けてしまいました。匂當八、赤田次郎を始めとする捕虜は三十人にものぼりました。この合戦が無事に済んだのは、全て三沢安藤四郎の作戦のおかげです。

鎌倉では、今日、御台所政子様が御所の女官達数人を、鶴岡八幡宮へお百度参りをさせました。これは、奥州合戦の勝利を祈ったのです。

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