卯の刻(午前六時頃)、頼朝様はすでに阿津賀志山を越えられました。
大軍が木戸口を攻め立てながら近づいて行き、鉾や長刀が林立し、矢は雨のように飛んでいます。それでも、西木戸太郎国衡は、おいそれと敗北をしそうもありません。畠山次郎重忠、小山左衛門尉朝政、小山七郎朝光、下河邊庄司行平、成廣、三浦介義澄、三浦左衛門尉義連、加藤次景廉、葛西兵衛尉淸重達が、武力に任せ、命を顧みず奮戦しました。その戦いの喚き声や叫び声は、山野に響いて、村里を揺るがすほどです。
ここで、七日の晩に小山七郎朝光と兄小山左衛門尉朝政の家来の紀権守、波賀次郎など七人で、安藤次を山道の案内人に頼んで、それぞれが鎧兜を馬の背に載せて引きながら、内緒で旅館を出て伊達郡藤田宿(福島県伊達郡国見町)から、一旦会津の方へ向かって土湯嵩、鳥取を越えて、大木戸の上の国衡の陣地の裏山に登り、戦闘開始の大声を上げて矢を放ちました。これに城中では驚いて、絡めてからも攻めて来たぞーと大騒ぎです。国衡以下の大将たちは、要塞に閉じこもっていては勝ち目はないが、かといってどう作戦を立てたらよいか智恵も回らずに、たちどころに逃げ散ってしまいました。
空は明けて来ましたが、霧が濃くて見通せません。秋の山は薄暗くて、明けたと言っても道は濡れて滑りやすく、敵味方の区別がし難い間に、国衡の家来達は、魚が網の目を抜けるようにして居なくなる者が多いのです。しかし、その中に金剛別当の息子の須房太郎秀方〔十三歳〕は、踏みとどまって防戦します。黒の斑の馬にまたがり、たてがみを風になびかせ正面に構えています。その戦闘意欲は顕かです。工藤小次郎行光が駆け出してそばに行こうとすると、行光の家来の藤五男が間に割って入って、秀方と取っ組み合いになりました。顔を良く見れば、未だ幼い童顔です。名前を聞いても、会えて名乗りません。しかし、一人で居残って構えていたのには、さぞかし心構えが出来ているのであろうと、取っ組み合いの末に殺しました。その力たるやとても強くて童顔には似合いません。組み合っていても対等なので、戦いの時間がかなりかかってしまいましたとさ。
一方、小山七郎朝光は、金剛別当を討ち取りました。そんれから、逃げ帰った兵隊達は、泰衡の陣地へ走っていって、阿津賀志山の陣地は、大敗したと報告しました。泰衡は、思いがけない経緯に落ち着きを失い、慌てふためきながら逃げて、北の方へ行きました。国衡も行方をくらましました。頼朝様は、その後を追うことになりました。
お供の武士の中の和田太郎義盛は、軍隊の先頭を駆け抜けて、真っ暗な夜になって柴田郡の大高山神社のあたりに行きました。西木戸太郎国衡は、出羽街道を通って、大関山を越そうと考えました。なんと偶然にも今、大高山神社の前の道の右側のたんぼの畔を駆け過ぎました。和田太郎義盛は、これを追いかけて、「戻って手合わせをしろ。」と怒鳴りました。国衡が、それに答えて名乗りながら、馬をこちらへ向かせてたので、お互いに左側の弓手に敵を迎えて、国衡は十四握りの矢をつがえ、義盛は十三握りに矢を放ちました。その矢が、国衡が未だ弓を引く前に、国衡の鎧の左側の鎧袖を射抜いて腕に当たりましたので、国衡はその痛みに耐えかねて、攻撃態勢を解いて逃げ出しました。和田義盛は、これは特別な大将軍を射たので、遠矢にあてようと次ぎの矢を構えて体制を整えました。ところが時悪しく、畠山次郎重忠が率いている大軍が駆けてきて、義盛と国衡の間に割り込んできてしまいました。重忠の客分の大串次郎が国衡にでくわしました。国衡の乗馬は、東北一の優秀馬〔四尺九寸147cm〕で、高楯黒と名付けられています。ものすごい肥満の国衡がこれに乗って、毎日必ず三回は、平泉の高山へ駆け上っても、汗をかかない馬なのです。それなのに、国衡は和田義盛の二の矢を恐れ、しかも重忠の大軍を見てビックリして、逃げようとあわてて、手綱捌きを誤り、馬を深田に入れてしまいましたので、何度鞭を振るっても馬は田んぼから出られません。大串達は、チャンスを逃さずに殺してしまいました。すばやい動作でした。
一方、泰衡の家来の金十郎、匂當八、赤田次郎を大将軍として、根無藤の辺りに城砦を構えていましたので、三沢安藤四郎、飯富源太を始めとする軍隊が兵を追いかけて走りながら攻撃を仕掛けました。敵軍も、降伏する気はさらさらありません。それなのでいよいよ持って互いに群れての戦いは、根無藤と四方坂の中間で、双方が戦い合わせること七回にも及びました。それでも、金十郎が討たれた後は、皆負けてしまいました。匂當八、赤田次郎を始めとする捕虜は三十人にものぼりました。この合戦が無事に済んだのは、全て三沢安藤四郎の作戦のおかげです。
鎌倉では、今日、御台所政子様が御所の女官達数人を、鶴岡八幡宮へお百度参りをさせました。これは、奥州合戦の勝利を祈ったのです。
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